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2017年04月26日23:54

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稲置街道28 “はやてよけ”と生きている鳥居

地図表記「秋葉神社」、社号標「八幡社」、旧社名「児子宮八幡宮」の拝殿の
東側に廻ると、銅板葺平入の祭文殿があって、
その石垣を組んだ基壇の角の石は1コの大きな自然石で賄われていた(写真左)。
祭文殿の軒下には手前に玉石を並べた、
向こう側に祭文殿の基壇とそこからはみ出すように縁石で囲った、
軒下雨受けが設けてあり、その枠内の東の端には献灯台が設けてあった。
献灯台の下だけ、砂利が積んであるのだが、
実際は枠内全体に砂利が敷きつめてあったものだろうが、
おそらく掃き掃除を簡略化するために、
砂利を献灯台の下に集めてしまったのだと思われる。
その献灯台を迂回して本殿を観に行くと、
祭文殿の背後には銅板葺素木の板塀が伸びており、銅板葺の渡り殿、
同じく銅板葺神明造の本殿がその塀内に納まっていた。

フォト

問題は本殿の鰹木が4本で千木が内剥ぎであることだ。
つまり、拝殿の額に書かれていない女神を祀る形式になっていることだ。
祭文殿も鰹木が8本で千木が内剥ぎになっている。
拝殿の棟飾りの滝が八条だったのは偶然だろうか。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2251500809&owner_id=350761

鰹木と千木からすると、
もとは神功皇后が主祭神に含まれた八幡社であった可能性もある。

境内に情報が見当たらないので、ネット上の情報を集めると、
『延喜式神名帳』にある尾張国山田郡鎮座の
綿神社(わたじんじゃ)に当るのではないかとする説があるようだ。
ただ、ここから北西370m以内に綿神社は現存している。
この情報にぶつかるまで、現存する綿神社の存在に気付いていなかったので、
観に行くことにする。
『由緒』(全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年)の情報も少ない。

「不詳なれども末社児子社は古来より虫封じの神として信仰深く戦前に於いては繁栄した神社である。」

『名古屋市史』には以下の情報があるという。

「児子宮はもともとは児の宮、あるいは児の御前社とよび錦神社の東、西志賀村にあった。
 明治7年現在の東志賀の地に移転
 大正時代には、4月14日より30日まで、子供の〈はやて〉〔疫痢〕よけのまじないとして赤い丸をひたいに書く神事があった。この時には、一日に二万人の人が参拝したという。」

錦神社は現在の名古屋市内には、港区に1社あるのみで、
西志賀村にあった錦神社は存在していない。
文中の「東志賀」は現在「志賀町」になっており、
児子宮は現在の八幡社の場所に移転したことになる。
「はやてよけ」のまじないは
現象的にはヒンドゥー教のビンディ(写真中:右)と共通する点があるが、
「赤丸神事(写真中:左)」と呼ぶ地域もある。
『由緒』にある「虫封じ」と
『名古屋市史』にある「はやてよけ」は共通するものだが、
どちらが先なんだろうか。
それにしても,この規模の神社で、一日に二万人の参拝者はすごい。

瑞垣に当る塀の外側、本殿の並びに6社の境内社を合祀した
銅板葺素木造の連棟社が祀られているが、

フォト

その社前には左右に笹竹を植え、添え木をして、上下2本の横棒で結ばれている。
これは一種の鳥居だと思われるが、初めて遭遇するものだ。
この連棟社に祀られているのは本殿側から以下5社だ。

地主社・津島神社・多賀大社・保食社・山神社

地主社の神がこの社地でもっとも先に祀られた神なのだろう。
この地域では稲荷社を保食社と表記する方が主流のようだ。
社殿はコンクリート造の土台に木製土台を乗せてあるだけのようで、
複数の大きな玉石で木製土台を抑えてあった。
この連棟社の並びの外側(東側)にもう1社連棟社があって、
そこには以下の3社が合祀されていた。

八剱社・神明社・熊野社
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