2024年4月号より。
肉体にかつては秋のみのりなす季節もあつたであらうをとこの 花笠海月
…その男の肉体、かつては秋の実りをなすような充実した日々もあっただろうに…、という歌。「なす」は、男の肉体の態様とも、男の肉体が他に働きかける意とも読める。前者で読めば、鍛錬の成果としての筋骨隆々たる肉体のイメージが浮かぶ。後者で読めば、その男の肉体は時に稲妻と化して女の胎内に生命を宿らせる力が漲っていただろう、と。結句末尾「をとこの」の言いさしは「をとこ」を目立たせたいがゆえだろうかと思うと、後者の読みの方に傾くように僕は感じた。いずれにせよ、散文にしてしまうとつまらない。歌の言葉ならでは、という歌だ。
くらやみを曳きてあゆめるひとありきすれちがふとき火の匂ひあり 原田千万
…幻像の歌。くらやみの中から一人のひとがぬっと現れた。あたかもそのひとがくらやみを曳いているかのようであった。そのひととすれ違った時、火の匂いがした。という夢を見たのかも知れないし、あるいは一首全体が暗喩という作りの歌かとも思う。この歌もまた歌の言葉ならでは、だ。歌会のような場で、先ず解釈を言いますとて一首を散文に翻訳して述べることが多いが、そして僕もこの欄でそのようなことをしているのだが、ほんとうは、散文に翻訳できてしまうようなことなら散文で言えよ、歌にすることはあるまい、と言わなければならないのかも知れない。
目あげればベビーカーの児(こ)が立ち上がり少女となつて吊革つかむ 榊原敦子
…一読なんだか不思議なシーンが詠まれていると思い、再読してああなるほどそういうことね、という歌だ。われは電車の座席に座っている。目の前にはベビーカーに乗った児がいた。しばしの後、ふと目を上げると、おや、ベビーカーの中にいたはずのあの児は少女に成長して吊革をつかんでいるではないか。わが一睡の間に時は甚だしく移りたり、というわけだ。
スピードをゆつくり落としつつ進むブレーキ踏まずひたり止め 逝く 山根洋子
…「止め」までは車の運転のさまを詠んでいるのだろうと思って読む。そこへ意外な一字アケがあって、「逝く」と言い置かれる。そうか、初句から「止め」までは「逝く」の暗喩であったか、なるほど…。「逝く」は、そのようにしてかのひとは逝きましたとも読めるし、こんなふうにして私は逝きたいものだと思う、とも読める。癌というのは考えようによってはありがたい病気で、死までの間に何ほどかの猶予の時間がある。というようなことも思ったりした。
とうさんかあさん消え去って残るのはただ在ることをまっとうすること 本間真琴
…この何年かの間のわが心境が詠まれているような気もして、印象に残った歌だ。この世にわれが在る根拠は何よりも先ず父と母の存在による。両親がこの世から消えて、その根拠は奪われてしまった。われは単身、なおも在ること、ただ、在ることをまっとうしよう。今、それ以外にわれの存在のゆえんは無い。あるいは、そんなわれであってもわが子の根拠にはなっているのではないか、と言いたくなるところ、次の歌では〈雪だるま青空の下に融け残るマンション群に消えた子供ら〉と詠まれている。
月曜の朝刊に吾が歌載れば読みたる人の一日は昏し 近藤 綾
…月曜の朝刊に歌壇があるのは、全国紙なら読売だろうか。その歌壇に吾が歌が採られた。普通なら、わーい!と嬉しく舞い上がるのではないかと思われるところ、作者の思いは別の方面にある。掲載された吾が歌はまことに昏い歌なのである。新聞歌壇だから、結社誌などより読者は多いだろう。吾が歌を読んだ人は、その日一日昏い気分で過ごすことになるのだ。何とも申し訳ないことだ。というふうにして吾が歌の影響力はあるだろうという自負も、裏面に秘められているのかも知れない。
胃が消えて脾臓も失せて膵臓の欠片残つてゐて歌は詠む 本多 稜
…「春のプロムナード」欄の「紅バラ」15首のラストの歌。先行歌に付された詞書によると、手術は2022年9月に行なわれたということだ。先日(2024.4.20)の「日々のクオリア」で本多さんの〈いつもながらのわざとらしさが嬉しいぞ霧晴れてさらに高き山頂〉(『蒼の重力』)が引かれて、筆者の土井礼一郎さんは「短歌を詠むには一生懸命になってはいけなくて、うまく力を抜くのがコツと、私は思っていたのだが、世の中にはこんな歌集もある。集中のどの歌にもとにかく力がみなぎっている」と書かれていたが(*)、さすがに手術の経験が詠まれたこのたびの一連は「力がみなぎっている」というわけにはゆかない。が、そのラストに置かれたこの一首が、歌詠む者としての本多さんの力の在り処を紛れなく伝えている。
(*)
https://sunagoya.com/tanka/?p=33697
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