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2023年08月26日05:25

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酒井佑子の歌(1)

昨年12月になくなられた酒井佑子さんを偲んで、これまでこの欄にてご紹介した酒井さんの作品を、以下順次再録します。

寅壱のニッカボッカに従きゆけば立葵咲く分去れの道  (「短歌人」2010年10月号)

・・・酒井さんはボキャブラリーが途方もなく豊富な方で、時々僕などにはよくわからない言葉を使われる。この歌の「寅壱」と「分去れ」がわからなかった。後者は読み方さえわからない。先日の歌会の折りに直接ご本人にうかがってみた。「寅壱」はニッカボッカのブランド名だそうだ。僕はひょっとして男の名前かと思っていたのだがハズレでした。「まあ、寅壱を知らないの?」と呆れられてしまった。「分去れ」は「わかされ」。道が二つに分かれる所を言うのだそうだ。というわけで、以上、歌評以前の語義注釈、でした。

帰りなむおのおのの悲へ夜のホームの高きに人は吹き寄せられて  (「短歌人」2011年1月号)

・・・「レクイエム」というタイトルの一連中の歌。一連の中で読めば、おとむらいの帰りの夜のホームと思われ、したがって「悲」の内容も特定されるのだが、一連から切り離して一首独立の歌として読むと、さらに別の味わいが生まれるように思った。平日の夜、帰宅を急ぐ者たちが高架のホームに群れているさまが思い浮かぶ。「吹き寄せられ」るのなら低きへ行きそうなところ、「高き」へ身を置かねばならぬという一事からして不条理であろう。「公」から「私」へ移ろうとする時間、「おのおのの悲」が立ち上がるのだ。

水に洗はれ日に眠りつつ生類の終らむとして終り得ず地に  (「短歌人」2011年8月号)

・・・「生類の終らむとして終り得ず」というフレーズに立ち止まった歌。ふつう、個々の個体としての生命には終りがあっても、総体としてのいのちは生きよう、生きようという方へたえず向かっているんだ、とよく言われる。だが、そうは言ってもすべてのものごとには「始まり」がある以上、「終り」もまたあるでしょう? ということを見据えて酒井さんはこのように詠まれている。ひょっとして、この地上に生類が現れたこと自体が、何かの間違いだったのではないか、それはほんとうに喜ばしいことだったのだろうか、というような問いの視線をも感じる。だがそれは決して安っぽいペシミズムなのではない。「水」と「日」はこの地上のいのちをもたらし、それをいつくしむ根源にほかならない。「生類の終らむとして終り得ず」というフレーズの奥底には、そのように生き継いでゆく生類への慈愛のまなざしがある、という思いが読者の側には最後に残るのである。


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