オルテガと田中仙堂の言葉

　　賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　オルテガ・イ・ガセット

　昨日の朝、朝刊一面に連載されている「折々のことば」（鷲田清一編）に、オルテガの言葉が引かれていた。『大衆の反逆』にある一文らしい。
　久しぶりにオルテガという名を見た。たぶん40年ぶりだ。『大衆の反逆』という論考集は、本を読んでも読んでもまだ読み足らないような読書家と、社会学徒ないし思想史専攻の真面目な学生を除いて、読む者はきわめて稀だ。左翼系の学生は他に読むべき必読書が山ほどあるし、知識人は知識人で一流で名のある哲学者を好む傾向があるので、スペインの得体の知れない思想家にはあまり興味を示さない。
　学生時代、大衆は馬鹿である、というのが口癖の男がいて、私も一方でその通りだと思いつつも違和感を抱いていたので、『大衆の反逆』を読んでみた。大衆擁護の書だという印象があったからだ。そうしたらオルテガも、大衆というのは愚鈍であって多数決の民主主義は社会をあらぬ方向へと導く、というような論を展開していて、閉口したのだった。もっともエリートに対しても辛辣な批判を重ねていて、バランス感覚のいい社会論者だとも思った。
　オルテガが、賢者は愚者と隣り合わせだ、みたいなことを言っていたのか。もっとも、ソクラテスもルソーもサルトルも……、古今東西、世の哲学者たちは言葉を替えて同じことを言っている。
　人間というのは誰しも似たようなものだろう。賢者も愚者も（能力）差なんて大してない。
　が、日々の暮らしの丁寧さだとか、知識や思考力の研鑽だとか、他者に対する思いやりなどで、差はわずかずつ開いていく。私は幼稚園の頃から現在まで、努力しないことにかけては最低最悪の人間であるのだが、だからこそ、先に挙げたような日常の義務を大切にしたいと思う。
　今日の夕刊を読んでいると、大日本茶道学会長田中仙堂さんというかたのインタビューが載っていた。1958年生まれだから、ほぼ私と同世代だ。

「社会は矛盾した原理に満ちていて、自分は間違ったところにいるのではないかという考えに向きあっていくしかない」
「ゲーテの『ファースト』にもありますが、ひとは努力する限り迷う。何が最適なのか、今も日々迷い続けています。考えることを休んではいけないと思います」

　多くの政治家と、国民の半数に達しようとしているウヨクな人びとに、聞かせてやりたいインタビューだ。謙虚さをなくした人間なんて、人間じゃないと思う。
　夕方5時前、ラズリと散歩に出た。
　近場の散歩コースは5つも6つもあるのだが、どの通りにも姿形がうるわしい外車が駐まっていて、クルマを見ているだけで楽しい。
　今日、新型シトロエンC3に買い替えたかたと初めて会話を交わすことが出来た。その前のクルマもシトロエンC3で、（こういう小粋なフランス車に乗られているご老人はいったい何者なんだろう？）と7年間、私は思い続けていたのだった。何度かシトロエンを運転されているお姿を見ていた。ご老人といっても私より5歳くらい年上だ（と思っていた）。
　ラズリと通りかかったとき、彼はシトロエンを手洗いしていて、私と目が自然に合った。
「こんにちは、毎回、素敵なクルマだなと思ってました」と話しかけてみたら、車好きというのはだいたいに於いて会話が弾むものだ。15分くらいの長い立ち話になった。
　私が「少し年上のかたがいかなクルマライフを送られているのか興味があるんです。後学のためにと申しますか、人生の参考書みたいな思いで……」と話したら、彼は意外なことを言った。「あなたより私、20歳も年上ですよ〜」。私は既に自分の年齢を彼に伝えていたのだが、20も年上だって(@_@)？　ということは80歳を超えている！
　見た目は70歳くらいにしか映らない。
　80歳で新車に買い替えですか？　と訊いてみたら、「ドライブするのが楽しくてね。来週も3泊くらいの予定で伊勢志摩を回って来ようか、と」
　えええっ、私は一昨日まで2泊で掛川までドライブ旅行をしていましたが、浜名湖あたりがもう自分の限界かもしれません、とバカ正直に答えた。
　新しいシトロエンC3の性能や乗り心地を尋ねたら、「CDが付いてなくて…」みたいな話題になって、iPhoneからBluetoothで飛ばすだの、USBでMP3を聴くだのという展開となり、80歳にしてこの旺盛な知識と適応力にすっかり感心してしまったのだった。明日にでもはがきにお礼と尊敬の気持ちをしたためて、今後ともよろしくご指導ください、とでも書き添えておこうかしら。うん、いいアイデアだ。私の先生にしよう。
　掛川では美味しいイチゴをお腹いっぱい食べた。牧場に行ってアイスクリームとヨーグルトを食べることが出来た。早咲きの桜は見られたが、ソメイヨシノはまだだった。
　私は下向きをよしと考えているのだが、少し前向きになってきた。春というのはひとをお調子者にさせる季節だ。