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2017年05月01日07:21

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稲置街道31 筑前志賀からやって来た一族

綿神社(わたじんじゃ)の三ノ鳥居の正面、30mあまり奥に意外な拝殿があった。

フォト

その拝殿は棟入の瓦葺入母屋屋根鉄筋造の社殿だが、
屋根瓦が藤鼠色の、社殿としては初めて見る色合いで、壁は白壁、
屋根瓦に合わせるように破風板、懸魚(げぎょ)、柱、棧は
絹鼠色に塗布されている。
格子の扉と窓は黒檀色のアルミサッシだが、建物全体の印象は
1棟だけで、
「地中海の白い宝石」と呼ばれる、エーゲ海のブルーを照り返す、
ミコノス島の白い街並のような印象を与える社殿だった。

境内に掲示された『式内 綿神社由緒』にはこうある。

「主祭神 玉依比売命(神武天皇の御毋)
     応神天皇(八幡様)
 
 綿神社の創建は大変古く、文字の使用もなかった弥生前期に九州の弥生人が此の地に定住し稲作農耕文化を東海以東へ拡めた基となった。其の中核は北九州〈志賀の〉安曇部族であろう。即ち故郷九州〈志賀〉は祖神海神の裔〈玉依比売命〉を祀り〈海神社〉と称し此の新天地も亦〈志賀〉と偲び名し同じく玉依比売命を祀って〈海神社〉と称した既に〈延喜式〉にも〈尾張の山田郡綿神社は筑前志賀の《海神社》と同列の社なり〉と記され本国帳にも従三位綿天神(略)綿は海の仮字にて(略)昔は此のあたりまで入海にてさる神社のおわしまししなり(略)とある
 文字の転訛は縁起や因縁等時代により珍しい事ではない。
 〜以下略〜」

この由緒にある主祭神として、
応神天皇より先に玉依比売命の名が記されているのは、
玉依比売命を祀った一族がこの地を開発したからだが、
この神社の二柱に神功皇后を加えれば、そのまま、八幡神社になってしまうが、
八幡神社と差別化するために主祭神二柱という
奇妙な神社になったのかもしれない。
神社の由緒に「弥生」という言葉が出てきたのには驚いたし、
この地を開発した一族の本貫がはっきりしているのにも驚かされた。
こんな由緒書、なかなか無いよ。

本殿を観ようと、拝殿の東側に廻った。
拝殿の裏面はコンクリート造の塀で囲われ、その中に鉄筋流造の本殿があった。
(写真左:本殿裏面)
屋根は銅板葺を模したもので、
屋根以外はすべて砥粉色(とのこいろ)に塗布されている。
これは尾張の鉄筋造の社殿によくみられる配色で、
個性的なここの拝殿とは無関係な配色で、
拝殿と本殿が同時に築造されたものとは思えない。
問題の鰹木は5本、千木は外削ぎで、男神を示しているから、
本殿の造りは応神天皇を主役にしており、
玉依比売命をメインで祀っている本殿としては妙なことになる。
これは、応神天皇を主祭神としている児子社の本殿が
女神を示唆しているのと同じくらい妙なことだ。
両社の本殿の形式だけからみると、児子社に玉依比売命が祀られ、
綿神社に応神天皇が祀られ、社名を入れ換えれば、すっきりするのだが。
両社に式内社綿神社説があることといい、何らかの混乱があったものと思われる。

綿神社本殿の塀に沿って、裏参道があり、入口に
伽羅色(きゃらいろ)の鹿島鳥居が立っている。
この裏参道を挟んだ向かい側には
南向きの瑞玉稲荷大明神の参道が一直線に延びている。

フォト

その社頭は綿神社の拝殿脇にあって、入り口には朱の鹿島鳥居が設置され、
参道にそって、朱地に社名を白抜きした幟が立ち並んでいる(写真中)。
その参道を辿ると、社前に二ノ鳥居があり、朱塗りの小社が
朱の瑞垣を巡らされた土壇上に祀られていた(写真右)。
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