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2016年10月29日18:24

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「V NAROD!」の逆説

    「V NAROD!」の逆説               斎藤 寛

「時代閉塞の現状」という文章を読むと、そこには〈東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる〉などと詠んでいた啄木とはほとんど別人ではないかと思われるような論客・啄木がいる。

「我々日本の青年はいまだかつて彼の強権に対してなんらの確執をも醸(かも)した事が無いのである。従って国家が我々に取って怨敵となるべき機会もいまだかつて無かったのである」「我々青年を囲繞(いじよう)する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行亙(ゆきわた)っている。現代社会組織はその隅々まで発達している」「明日の考察! これ実に我々が今日において為(な)すべき唯一である、そうして又総(すべ)てである」(a)と彼は書く。主語は「われ」ではなく「我々」である。団塊の世代の読者は「ワレワレワァ!…」というアジテーションを想起するかも知れない。どちらかと言えばそれに近い文体で彼は書いている。

1910年5月に起きた大逆事件(その検挙者の大半は政治的フレームアップであった)に衝撃を受けた啄木は、同年8月、当時校正係として勤務していた東京朝日新聞に掲載すべくこの「時代閉塞の現状」を書いたのだが、公表されたのは彼の死の翌年(1913年)、土岐哀果(土岐善麿)によって出版された『啄木遺稿』においてであった。さらに啄木は、大逆事件の首謀者と目された幸徳秋水が獄中で書いた「陳弁書」を歌仲間だった弁護士の平出修から借り、その全文を書き写すとともに長文の注解を付した文章を「A LETTER FROM PRISON」と題して、1911年5月、時代の記録として、発表の当てのないまま書き記したのであった(公表されたのは第二次世界戦争後である)。その啄木による長文の注解中に、彼が愛読するところとなっていたクロポトキンの自伝が英語で引かれているのだが、その引用中に「V narod!」(ヴ・ナロード![民衆の中へ!])というロシア語、すなわちナロードニキのスローガンがある(a)。この文章に続いて彼が書いた詩「果てしなき議論の後」(「呼子と口笛」所収)にて「されど、誰一人、握りしめたる拳(こぶし)に卓をたたきて、/‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。」(b)と繰り返されたその‘V NAROD!’である。

このようにして啄木は無政府主義ないし社会主義へ傾倒していた。が、「民衆の中へ!」と呼びかける主体も呼びかけられる客体も、民衆ならざる者であろう。ロシア・ナロードニキにあってはそれは知識人層であった。「民衆」を「大衆」と言い換えるなら、「知識人−大衆」あるいは「前衛党−大衆」といった、現在の私たちにとってはある意味ではお馴染みの問題構図がそこから生起されるであろうことは見やすいところである。啄木は夭折してしまったので、そうした問題に巻き込まれて苦悩するいとまもほとんどなかったであろう。それでも、1911年の夏から秋にかけての頃、友人の金田一京助を訪ねた啄木は「幸徳一派」から「社会主義的帝国主義」へ転じた旨語ったと金田一は記しているという(c)。この「社会主義的帝国主義」という珍妙な(今にして思えば大いなる皮肉とも思える)語は、「民衆の中へ!」より生起する問題圏にすでにしてとらわれ始めた彼の思想的葛藤の一端だったのではないだろうか。もし仮に彼が長く生きられたなら、例えば日本共産党(1922年、非合法組織として発足)とはどのような関わり方をしただろうか。彼の前途にはそうした問題が待っていたはずである。

しかし、このような話は私たちのおおかたが抱いている啄木像からは外れるものだろう。やはり啄木と言えば歌人・啄木である。が、何と言ってもまず第一に歌人として自らの名が残ったことは、啄木自身にとっては不本意なことだったようだ。彼はほんとうは小説を書いて作家として世に出て稿料も稼ぎたい、という欲望を抱いていた。歌などというものは所詮歌にすぎぬぐらいに思っていたらしい。「弓町より−食うべき詩」という文章(1909年)にて、「私は小説を書きたかった。否、書くつもりであった。又実際書いても見た。そうして遂に書けなかった。その時、ちょうど夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱ったり虐めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘に短歌という一つの詩形を虐使する事に発見した」と彼は書いている(a)。『ローマ字日記』にも、「与謝野さんの宅の歌会」へ行ったが「むろん面白いことのありようがない」「予はこのごろまじめに歌などを作る気になれないから、あい変らずへなぶってやった」(1909年4月11日)と書かれているくだりがある(d)。斯くて失意の時に次々に湧いてきた歌やへなぶってやった歌をも収めたのが『一握の砂』なのだが、その刊行後の啄木の書簡(1911年1月9日、瀬川深宛)においても、「僕の今作る歌は極めて存在の理由の少いものである、僕はその事をよく知っている、言わば作っても作らなくても同じ事なのだ」「正直に言えば、歌なんか作らなくてもよいような人になりたい」と書かれていた(e)。

それなら歌など詠まなければよかったではないかと言いたくなるところ、啄木はこんなふうにも書いている。「一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩形を持ってるということは、我我日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ」。と言いながらこのくだりに続いて「おれはしかし、本当のところはおれに歌なんか作らせたくない」「おれは初めから歌に全生命を託そうなんて思ったことなんかない」と、やはり彼は付記していたのだった(f)。

ある日、仙台駅から仙台文学館まで小池光が乗ったタクシーの運転手は、「短歌ってのは、じっと手を見るやつですか」と言ったのだそうだ(g)。〈はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る〉という一首を、もし「V NAROD!」の者が読んだら、じっと手を見ているだけでは暮らしは変わらないだろう、かかる民衆の自己変革こそが我々の課題だ、と言ったかも知れない。だが、民衆ならざる「我々」を立てず、「一秒がいとしい」と思う「われ」の詠んだ歌は、現在の仙台の一タクシー運転手の心に留められていた。まことに皮肉な逆説と言うべきなのかも知れぬが、所詮歌にすぎぬと啄木が思っていたその歌は、難儀な回路を経ることなく、すんなりと「民衆の中へ」入って現在に至っているのである。

[引用文献]
a『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』岩波文庫
b『啄木詩集』大岡信編、岩波文庫
cドナルド・キーン『石川啄木』角地幸男訳、新潮社 第14章
d『ローマ字日記』桑原武夫編訳、岩波文庫
e『ちくま日本文学033 石川啄木』筑摩書房
f「一利己主義者と友人との対話」(1910年)における啄木自身と思われる「A」の発言より。『日本の文学21 悲しき玩具・我等の一団と彼』ほるぷ出版
g「現代短歌」2016年3月号

(「短歌人」2016年11月号より転載)

[付記]「短歌人」の誌面では注記しませんでしたが、引用文献fの「一利己主義者…」のほるぷ出版刊のバージョンは、発話者「A」とあるべきところ「B」と誤植されている箇所があります。


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