自分の通っていた大学について。大学の校風ってのは、バンカラとハイカラに分かれるそうだった。バンカラというのは、「野暮ったい、粗野である」という意味である。一方で、ハイカラというのは「洗練さるている」「上品である」という気質であった。前者は近
自分の通っていた大学について。大学の校風ってのは、バンカラとハイカラに分かれるそうだった。バンカラというのは、「野暮ったい、粗野である」という意味である。一方で、ハイカラというのは「洗練さるている」「上品である」という気質であった。前者は近
私の中では、どうやら長い間「辞める」と「止める」が混在していたように思えてならなかった。言わば、「辞める恐怖症」というのは、まんま「友達を止める(=疎遠になる、失くす)」→「死ぬほど、洒落にならない程の辛い思いをする」という図式が、私の中で強
なぜ、母が教師を退職してから、私の中で尋常ならざる「怒り」が現れたのか。それは、私によって、母が教師であるがゆえにもたらされた「言動」や「行動」というものに、説明がつかないからであった。それは、今の私にとっては、言うまでもなく「有り得ない」
先週と言えば、休み前に、ブックオフに繰り出しては「ナニワトモアレ」という南勝久先生のヤングマガジンの作品を探していた。登場人物の多くが、中卒とか高卒の方々が多かったが、これも時代だろう。そして「何者」かになりたくて、短気なのは、若気の至りな
ここ数日、大阪市内や、県内のブックオフを巡っていた。「なにわ友あれ」の前身である「ナニワトモアレ」を物色するためであった。そう、これは僕が胸を張って「自分のため」と思えるような行為であった。ストーリーの委細は省くのだけど、平成元年の、泉州や
自分自身の心の照準を、どこに合わせればいいのだろう、という事は、ずっと考えていた。それは「敗色の濃い戦いで、更に不利な役割」を引き受けていく場面であった。勝てる勝負で、というか勝ち馬に慣れるんだったら、それに飛びつくなんて当たり前の事だろう
さて、大学受験よりも、クラブやクラス云々の事よりも、ここしばらく、ずっと、サークルのあるクソに、報復することばかりが脳裏に浮かんでいた。ただ、今思うのは、報復を一番恐れているのは、そいつ自身じゃないだろうか。口で大層なことを宣っているが、筋
俺という人間について、自分の中の「膿」を出し切ろうとした時に、自分の中で、客観的に、そして冷静に自分というものを見つめる事ができた気がした。ダチョウ倶楽部の故・上島竜平氏や、レミオロメンの藤巻亮太氏と同じく、といえば僭越であれど、畢竟、ダチ
表題の人物は、確かに私の高校生活を狂わせた発端になった人物ではあるが、今となってはどうでもいい。むしろ、「世の中は、あなた(カトー)を、気持ちよくするためにはできていない」という事を教えてくれのである。ただ、この人の「土日はゆっくりしたんや〜