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2022年09月15日22:48

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僕という人間 その4

ここ数日、大阪市内や、県内のブックオフを巡っていた。



「なにわ友あれ」の前身である「ナニワトモアレ」を物色するためであった。



そう、これは僕が胸を張って「自分のため」と思えるような行為であった。




ストーリーの委細は省くのだけど、平成元年の、泉州や堺、天王寺などを舞台にした、大阪環状族(所謂ルーレット族)の物語であった。




もちろん、私がこの作者である南勝久先生の如き体験をしたわけではないが、不思議と、自分自身がその空間にいるような感覚に陥っていた。



スジを通す。人としての生き様。引き受けたことを全うするーーといった、ごく当たり前の事であった。僕もそれは15歳ぐらいから変わらず、ずっとそういった気持ちを持っていたのである。



やられたらやり返す、ケジメや、仲間がやられて、黙ってられへんねん!!




ケンカかあ?ワレ、とことん行ったるぞ、コラ!というセリフが出まくっていた。



中でもお気に入りは、堺プレスト、サメケンの「ハッシュがナンボのもんじゃ、俺がバチバチにいったらあ!」という血気盛んさと、男気を見せていた。



そして、個人的には、自分の性格はこのサメケン、そしてとトリーズンのナオキに似てるのではないかと思えた。中でも、ナオキは男前の上に、統率力もある、人がついていきたいと思わせる何かがある―――彼が俺と似ているかどうかはともかく、私の理想像というものを、彼に見いだすことができたのであった。



富樫氏のハンターハンターや、片淵素直監督が映像化に着手した、「ブラックラグーン」や「この世界の片隅に」に対しても言える事なのだが、共通しているのは「世間というのは、あなた(主人公)を気持ちよくするために存在しているのではない」という事を教えてくれるのである。




なにわ友あれに即して言えば、彼の行っていることは、紛れもなく反社会的な行為であり、いかにチームやケンカといったところで、社会的に認められるものでは無論ない。それにも関わらず、彼らを咎める大人と言うのが、稀に登場する警察を置いて他にない。この世界では、平成元年といっても、彼の中ではむしろ中世であり、無法者には、警察や検察など、国家や司法の手に委ねるのではなく、自分たちで「ケジメ」という形で制裁を加える、と言ったことだろう。


だが、不良賛歌と言えば、そうでもない。私には作者が、「大阪での走り屋という、狭い世界でひたすら有能ぶっていても、現実世界では社会的弱者に他ならない」というメッセージを感じてしまった。この辺りが個人的に言えば、湘南純愛組や、昨今の東京卍リベンジャーズとは、一線を画すところであると感じていた。事実、引退してからは、一般人として、起伏のない人生を送っている者が大勢いたし、作者自身も、青春の一ページ---それも、社会的に決して認められることはない、心の引き出しにしまうべき思い出なのだろう。



そして、ブラックラグーンや、この世界の片隅に、に即して言えば、誰かが良い思いをすれば、誰かにしわ寄せはいく、というのは、この世の摂理である。そして私という人間アは、どうしても、ヒーローの如き英雄譚ではなく、その結果、他の人たちに「何が起きてしまったのか」という悲劇の方が気になってしまう。そして、これは私という人間の性分である。


これに、更に共通している事というのは、人は、生きる時代を選らぬ事ができない。そして、運命に翻弄されようとも、そこに抗うことは出来ず、なすがまま、流されるままに、それでも与えられた天命を全うする、という人生観であった。








私は、そういう姿勢というものが、とても好きであった。












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