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2022年09月10日09:02

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僕という人間

俺という人間について、自分の中の「膿」を出し切ろうとした時に、自分の中で、客観的に、そして冷静に自分というものを見つめる事ができた気がした。



ダチョウ倶楽部の故・上島竜平氏や、レミオロメンの藤巻亮太氏と同じく、といえば僭越であれど、畢竟、ダチョウ倶楽部や、レミオロメンという土台、もとい心理的安全が確保され、なおかつ、自分の味方であり、彼らから良い影響を受け、それを他者、つまり我々「見る方」に還元できるような、そういう性質の人間であると、自分自身を再確認した。




それは、幽遊白書の桑原和真のように、自分以外の誰かのために、120%の力を発揮することが出来る人間、といっても過言ではないだろう。




ただ、その反面、一度その関係がこじれると、後々まで、ずっと尾を引くという特徴も、少なくとも私は持っていた。





上島竜平さんで言えば、コロナウイルスによって、そして藤巻亮太氏であれば、東日本大震災によって、結果的にレミオロメン活動休止へと歩み出した。



これと同じではないけど、どうも私も、高校一年生の時に、似たような状況になってしまった。しかも、それが重なってしまったのである。



俺という人間は、自己弁護的でがあるが、彼らと同じく、少しでも他者の良い色から影響を受けなければ、力を発揮することが出来なかった。



しかし、「関わざるを得ない」「合わさざるを得ない」という状況で、まさに「自分がされて嫌な事を、他者に押し付ける」という手合い、もといクズに目を付けられることになった。


二つのケースのうち、一方では、一年間を、その「笑えない真似をする」連中と、過ごす羽目になった。距離を置くのもいいが、それが出来ない状態になってしまった。後述するもう一つの理由によって、少なくとも私は、そのように感じていた。



もう一つというのは、学校の事情によって、嫌々顧問を引き受けた教諭によって、サッカー部が大崩壊してしまった。


そこでGKが抜けた穴を、友達に打診されることになった。もちろん、私と友達は、普通に話もするし、お互い「つま弾きにされたもの同士、しゃーなしで群れている」という間柄では、無論無かった、と少なくとも私は認識している。むしろ、そういう関係だったのは、高1の、文系クラスのクズ男数人であろう。他人をダシにして固まる、仲間を増やそうとするのは、自分がダシに使われるのを一番恐れているということの証左に他ならなかった。


そして、こういう性質の人間は、この素人嫌々顧問にも言える。自分がされて嫌な事を、まんま他人に(もちろん一番立場の弱い人間)にぶつけるような、怯懦そのものの人間であった。



それが遠因となり、サッカー部の友だちと仲たがいしてしまった。それがもう、私の中で、これからの生活の歯車が狂っていった事の決定打となった。そして言うまでもなく、時勢には抗う事が出来ない。私の「こうするしか、残された方法がない」という空回りのエンジンは、既にかかってしまった。




ギリシア時代のユリウス・カエサルは、「The die is cast」---つまり、「賽は投げられた」という言葉を残したが、私も彼と、ほぼ同じ心境であったのだった。



そして、それを軌道修正する能力も経験も、当時の私は無論持ち合わせてはいなかった。

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