mixiユーザー(id:68108846)

2026年05月04日08:59

50 view

長崎励朗『大大阪という神話』(中公新書)を読みました

長崎励朗『大大阪という神話』(中公新書)を読みました。
著者は、桃山学院大学社会学部准教授であり、生まれの育ちも大阪だということです。
本書の中身は、タイトルから受ける印象とは少し違っています。すなわち、広く知られているように、戦前昭和期で日本経済のピークとされる昭和9-11年、西暦でいうと1934-36年ころまで、大阪の経済規模は東京を上回っており、いわば、日本最大の都市でした。本書でも、行政区画の変更で東京市が大阪市を上回ったり、下回ったりというのは軽く言及していますが、少なくとも、21世紀の現時点での大阪の凋落ぶりは微塵もありませんでした。ハッキリいって、徳川期は大坂の方が経済規模は江戸より遥かに大きかったわけですから、そのあたりで逆転したわけです。本書では、経済の視点から大阪が東京を下回るようになった経緯を議論しているのではなく、「均質化の欲望」(p.��)という聞き慣れないキーワードでもって、大阪が中央の東京に対抗する過程で独自性を喪失していく、という歴史を追っています。
序章と終章を除いて4章構成であり、第1章では大阪放送局、NHKに吸収された今もJOBKの愛称が残るラジオ放送開始時の放送局開局の顛末に着目しています。すなわち、当時の大阪の資本家には2種類の人がいて、一方は本書で大阪原人と呼ぶ古くからの大阪商人であり、歴史と伝統がある凡凡、といえます。それに対して、他方で、新興資本家、というよりも、相場で一発当てた成り金の金持ちがいます。
この2種類の大阪人が大阪放送局開局に当たってぶつかり合うわけです。前者の大阪原人はなあなあで放送局人事を決めようとする一方で、過去から蓄積した十分な経営スキルを有しています。ラジオ放送の公共性という点も理解しています。他方で、新興資本家たちは資金面では大阪原人に十分に対抗できるだけの余裕があり、多数決で放送局人事を握る一方で、ラジオ放送により儲けを出すことには熱心ですが、放送の公共性を理解せず、経営スキルがそれほどありません。
そういった派閥抗争的な大阪放送局、あるいは、ついでながら、その前哨戦となった大阪電燈の買収を歴史的に追って、経営スキルに欠ける新興資本家が資金力や多数決で経営参加するものの、結局、スキル不足で経営に失敗して、最後は官僚の介入を招く、という結論を引き出しています。当然に、官僚が介入すると大阪独自の色彩よりも、全国一律の「均質化の欲望」が働くわけです。
さらに、第2章以降では、放送における標準語でのコミュニケーション、吉本興業の漫才はホントに大阪的か、小林一三による職業野球と宝塚歌劇の展開などに着目して、同様の大阪論を展開しています。そのあたりは、読んでみてのお楽しみです。

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する