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2025年12月23日09:29

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三宅香帆『考察する若者たち』(PHP新書)を読みました。

三宅香帆『考察する若者たち』(PHP新書)を読みました。
著者は、私も読んだ前著の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)で話題になった評論家です。ただ、本書は、結論からして、少し物足りない読書でした。
2020年から始まったコロナ禍あたりで切り替わった平成から令和への時代の流れの中で、ひとつの大きな変化として批評から考察、というのを捉えて、何らかの謎を解き明かし正解を得ようとする行為を令和の特徴としています。とても怪しいと感じるのは私だけではないと思います。
本書では、例えば、映画化もされたウェブライター雨穴による小説『変な家』について、何らかの正解がある「考察小説」、あるいは、読者が考察して正解を得ることを著者が期待している、と捉えています。単独でそう考えることにムリはありませんが、平成から令和への時代の流れの中で社会の多くがそうなっていると考えるのはムリがあります。
この第1章の批評から考察へ、で始まって、第2章では萌えから推しへ、第3章と第4章は飛ばして、第5章でやりがいから成長へ、となると、さらに怪しくなります。何らかのブランドや組織や行動に対するエンゲージメントから、自分の満足への目標の変化、という意味なのだろうと思いますが、そこまで日本社会は成熟していない気がします。
いくつかのSNSやYouTubeなどでの動画配信がますます多様化し、本書でいうようなwebプラットフォーム上での「正解」という最大公約数を浮かび上がらせるような現象というものはまだ現れておらず、将来はともかく、現時点では社会的な分断が進んでいるだけであり、将来的なコンバージェンスに至る成熟化は、まだ見られない。と私は考えています。
アチコチで何度か繰り返していますが、20-30年から50年くらい先では、私はSNSや動画の配信などは現時点での酒・タバコと同じような見方をされる、と考えていて、反社会的とまではいわないものの、「決して賢い人のすることではない」あるいは、「やり過ぎず、ほどほどに」と受け止める人が少なくないような社会が到来する可能性があると考えています。
それまでの長い長い期間、最大公約数的な「正解」ではなく、自分や自分が属するグループの考える「正解」を追い求める分断の方が表立って観察されるのではないか、と私は考えています。ですので、考察というよりも正解を求めるというのは、令和ではなく、令和のさらに先の時代のことかもしれません。

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