2023年６月、青磁社刊。
𠮷澤ゆう子さん（マイミクの悠さん）の第一歌集。𠮷澤さんは「塔」に所属されている歌人にして、チェリストである。
以下『緑を揺らす』より10首。なお、引用は必ずしも掲載順ではない。
森として分け入るときにひかるもの鞄に入れて歩き出ださむ
…巻頭に置かれた一首。この歌に始まる「小さき緑」12首は実に魅力的な一連で、この一連を巻頭に置いたのは良いチョイスだったと思う。この歌の初句「森として」の「として」がいかにも歌の言葉だ。〈今夜とて�壇沈酖呂蠅洞兇硫爾藁�れてをると氣付きて過ぎぬ〉（森岡貞香）の「今夜とて」を思わせる措辞である。
おほかたのひとの地平の果てにゐて吾はちひさき緑を揺らす
…「小さき緑」12首のラスト12首目にして歌集タイトルのゆえんの歌。初句〜３句は、人界を離れたかのような気分で、ぐらいの意味合いなのだろうが、「地平」という語は現象学の用語を思わせるような深みを感じさせる。
遠くから木菟に見られてゐるやうな夜だあなたの腕（かひな）に触れる
…掲載位置はこの歌集の後半なのだが、巻頭12首のモードを引き継ぐような歌だ。母としてわが子を詠んだ歌が多いこの歌集の中に「あなた」が現れて印象に残った。「木菟」は音数からしても意味合いからしても、「つく」といういにしえの読み方がフィットするだろう。ここはルビがあってもよかったかも知れない。
声よりもわがこゑであるチェロを容（い）れハードケースは背に平らなり
…チェリストの詠める歌だ。このケースを背負っているひとを描写した歌は時々見かけるが、背負っているわれが詠む歌というのはユニーク。「声」と「こゑ」の書き分けには作者の心と耳がかかわっているだろう。以下「チェロとなり…」「名前持つ…」の歌も「こゑ」という表記が選ばれている。
触れてゐる膚あたたかきわがチェロに性有るならば男性だらう
…なくなられた宮沢明子さんが独身だった頃、私はピアノと結婚しましたからもう結婚はいいんです、とラジオで言われていたのを思い出した。ましてやチェロである。そのあたたかい膚と抱き合っているような心持ちで演奏されていて、それにふさわしい“こゑ”が響くのだろう。
チェロとなり木は樹でありし頃のこゑ聴かせてくれる吾と共にゐて
…佐佐木幸綱さんが読んだら「これはアニミズムの歌だ」と言われるのではないか。木製の楽器であるチェロ、その「木」はわれと共にあって歌う時、かつて森の「樹」であった頃の“こゑ”を響かせてくれる。「小さき緑」12首の世界はこんなところにも反響している。
旋律の終はりてのこるイ短調和音は井戸の闇のごとしも
…オーケストラの一員としてステージ上にあって、一曲の演奏が終了する間際のシーンだろうか。「イ短調和音」は余韻のようにして響く弦楽器群の和声、あるいは耳というよりは心に残る静かな響きかも知れない。「井戸の闇のごとしも」という直喩がうまく効いている。涼やかにして豊かにして、しかしかなしくおそろしげでもある闇である。
名前持つ前のわたしに呼びかけしちちははのこゑ聞きたし今宵
…未生のわれ、胎内のわれ、あるいは生まれてまだ間もなくて名づけられる前のわれ。ちちははは名前ではなくて何と呼んだのだろう。その“こゑ”を聞きたいと詠まれた歌。ちちははに対するなつかしさの感情の極地が思われる。
父の短歌（うた）書かれてありぬみどりごの吾を抱きたる写真の横に
…この歌には〈白い雲流れる多广の河原でゆう子を抱いて春をたのしむ〉という詞書が付されていて、それがなつかしい父の短歌なのだろう。「あとがき」によると、𠮷澤さんが歌を詠み始めたのはお父さまの直接の影響によるものではないようだが、意識下で通じ合うところはあったのかも知れない。
ただいまを言ひし瞬間ことばから父は祖父母の三男となる
…父は祖父母からすれば息子であり、わが父の場合は三男なのである。「ただいま」に始まる発語は三男としての声なのだ。この歌の前には〈祖父（おほちち）の一家八人疎開せり伊豆半島の先端の地に〉という歌があり、歌集の後半の方には〈「お父さんはいわうたうで生まれたの」母は幼き吾に言ひゐき〉という歌も置かれている。
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