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2023年02月08日09:00

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2/5 佐伯祐三 自画像としての風景@東京ステーションギャラリー

後期印象派からエコール・ド・パリとその周辺の画家に夢中になっていた10代〜20代の頃、佐伯祐三も大好きだった。イケメンなうえに、肺結核でたった30歳の若さでこの世を去る。パリの街角の壁を描いた絵は、まるで時間を惜しむかのように素早く荒いタッチで描かれていて、同時代のよく似た画家荻須高徳の、パリの息遣いが聞こえるような、でも落ち着いた作品に比して、ものすごく情動的で、私にとってはさらに魅力的だった。
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家にある図録を確かめてみると、1988年日動画廊での、没後60年を記念した展覧会のものだった。その後は2005年に練馬区立美術館で開催されたようだが、行っていない。なんと35年ぶりにみる大回顧展。リストと図録を照らし合わせたら、出展数130点中50点以上を日動画廊で見ているようだ。当時は、大阪市所蔵のものが、今は大阪中之島美術館所蔵になっている。本展も中之島美術館へ巡回する。
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日曜日11時半、予約なしで入場。思ったより混んでいて、意外にも外国人が多い。フランス人、中国人、韓国人…観光の一環?ロッカーはかなり埋まっていて、コートのまま見ている人も多かった。退場した2時頃には入口にもっと多くの人がいた。人気なの?26日までは前期で、入れ替えがあるが、11点程度だ。

展覧会は年代順でなく、ジャンル別(自画像、肖像、静物)および、日本(大阪と東京)とフランス(2度の渡仏)に分けてある。パリ15区にに引っ越し、下町の壁を描き続けた時代の作品は、赤煉瓦の展示室にあり、佐伯の作品とマッチして一つの世界を作っているようだった。

https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/6656
https://saeki2023.jp/highlight.html
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大阪、東京、パリ。3つの街で、画家としての短い生涯を燃焼し尽くした画家、佐伯祐三(1898-1928)。2023年に生誕125年を迎える佐伯の生涯は、多くのドラマと伝説に彩られています。彼が生み出した作品群は、今なお強い輝きを放ち、見る人の心を揺さぶらずにはおきません。
1898年に大阪で生まれた佐伯祐三は、25歳で東京美術学校を卒業し、その年のうちにパリに向かいます。作品を見せたフォーヴィスムの画家ヴラマンクから、「このアカデミック!」と怒声を浴びたことが、佐伯を覚醒させます。2年間の最初のパリ滞在中に、ユトリロやゴッホらからも影響を受け、佐伯の作品は大きな変貌を遂げていきます。1年半の一時帰国を経て、再渡欧したのは1927年のこと。このとき佐伯は29歳になっていました。パリに戻った佐伯は、何かに憑かれたかのように猛烈な勢いで制作を続けますが、結核が悪化して精神的にも追い詰められ、1年後にパリ郊外の病院で亡くなりました。
佐伯にとってパリは特別な街でした。重厚な石造りの街並み、ポスターが貼られた建物の壁、プラタナスの並木道、カフェ、教会、さらには公衆便所までが、傑作を生み出す契機となりました。また、多くの画家たちや作品と出会い、強い刺激を受けたのもパリでのことです。一方で、生誕の地・大阪、学生時代と一時帰国時代を過ごした東京も、佐伯芸術を育んだ重要な街でした。本展では3つの街での佐伯の足跡を追いながら、独創的な佐伯芸術が生成する過程を検証します。



プロローグ自画像

《自画像》1923年
中村彜の《エロシェンコ像》に影響受けたのは明らか。でも日本人離れしたイケメンだからよし。
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《立てる自画像》1924年
こちらはルソーか。顔をナイフで消している。この年の夏、ヴラマンクに描いた絵を見せたら「このアカデミック!」と一喝されて、覚醒し、画風が変わったという。
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1−1大阪と東京:画家になるまで

1−2大阪と東京:〈柱〉と坂の日本ー下落合と滞船


《下落合風景》1926年
体調が悪かったため、第1次渡仏から帰国。高低差が少ない下落合の風景は、パリと違って描きづらかったらしく、坂の上から見下ろす風景を選んだとか。
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《下落合風景》1926年頃
鉄道高架。乱立する電柱は、帆船の帆柱とロープの重なりに通じて、佐伯にとって大切な線となる。
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《滞船》1926年頃
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*親しい人部との肖像

*静物

《蟹》1926年頃
写生に出られない雨の日には、静物画に取り組んだという。何気ない身近なものでもすごく上手い。30分ほどで描き上げてしまうという。
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2−1パリ:自己の作風を模索して

《パリ遠望》1924年
初めての渡仏で、ドラン、ヴラマンク、ゴーガン、ルソー、セザンヌに触れ、影響を受ける。ヴラマンクに怒鳴られる前のセザンヌ風の絵。
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《オーヴェールの教会》1924年
ゴッホ終焉の地のオーヴェール、ゴッホと同じアングルで教会を描く。ゴッホへのオマージュ。
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《パリ郊外風景》1924年頃
ブラマンクの色彩と視点を勉強し、物質描写をする。パレットナイフを使い荒々しいタッチで。不透明な色彩も彼独自のものとし、ヴラマンクに「物質感はナマクラだが、大変優れた色彩家だ」と称賛される。
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2−2パリ:壁のパリ

1924年末に郊外からパリ14区に引っ越しをする。ユトリロの影響を受ける。最初は建物を斜めから捉えた遠近法を用いるが、次第に壁に魅せられ、正面から対峙するようになる。圧倒的な物質感と独創的なマチエールで、佐伯らしい画風が確立していく。

《壁》1925年
私の好きな絵の一つ
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同じモチーフでも何度も描くという。
《レ・ジュ・ド・ノエル》1925年
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《コルドヌリ(靴屋)》1925年
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《広告のある門》と《門と広告》1925年
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並べて展示してあるので見比べるととても面白い。

中に、小さい絵が2点並んで展示してあった。1925年に描かれた《パリ街景》と《パリ歩道スケッチ》(どちらも大阪中之島美術館蔵)で初公開。
《パリ街景》は上と右が断ち切られ、《パリ歩道スケッチ》は4辺が断ち切られている。一つの絵の部分?目下調査中だそうだ。

2−3 パリ:線のパリ

佐伯は、1924年1月からの2年と1927年8月からの1年(うち、5か月は病床にあり)、併せて2年7か月しかパリを描いていない、生涯を通してもたった4年数か月しか絵を描いていない。まさに「駆け抜けた天才」なのだ。
2度目の渡仏は1927年8月、シベリア鉄道経由でパリに入る。汽車賃のメモがあった。

急角度の遠近法、あるいは正面向きの壁と奥行きある道の組み合わせで建物を描く。興味は壁のポスターや看板に写り、画面を飛び跳ねる細い線が特徴となる。

《カフェ・タバ》1927年
長い間パリに保管されていた作品。赤い服の女はいろいろな絵に登場する。
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《ピコン》1927年
傘をさす人がいる。初めて見たと思う、これいいなぁ。
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《新聞屋》1927年
ラックに挿さる新聞の上の部分はナイフでひと描き。そのうえに細い筆で文字を入れている。
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いい作品が多くてここに載せるのを選ぶのに苦労した(笑)


3 ヴィリエ=シュル=モラン

1928年2月にパリから電車で1時間ほどの村ヴィリエ=シュル=モランに滞在して制作をする。結核は悪化していたが、なんと二日で3点を仕上げるという制作密度、まさに命を削るとはこのこと。とても病気とは思えない太く力強い線が特徴。

《モランの寺》1928年
一部焼失したが、15点の連作。
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《煉瓦焼》1928年
佐伯祐三コレクターの山本發次郎が最初に魅せられて購入したという作品。力強くてとても病んだ人が描いたと思えない。
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エピローグ 人物と扉

1923年3月雨の中での写生が祟り風邪をひく。外に出る体力はもうなく、たまたま訪れた郵便配達夫とモデル志願のロシアの少女と、扉の2点を描く。これが実質的な絶筆。
自裁未遂を経て8月16日逝去。同じく結核に罹っていた娘の看病で夫人は看取れず、娘も後を追うように亡くなる。一人で帰国した夫人はどんな思いだったのだろうか。

《郵便配達夫》1928年
ゴッホを想起させる有名な絵だが、絶筆のうちの1点だとは知らない人も多いのではないか。
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《扉》1928年
重厚な木製の扉が固く閉じている。絶筆だと思うと、そこに何か意味を想像してしまうのは私だけだろうか。
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4月2日まで(2月28日から後期)

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