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2021年03月24日09:51

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本棚375『打ちのめされるようなすごい本』米原万里(文藝春秋)

 米原万里の全書評集。その舌鋒は鋭く、例えば、明治以降近代化を急ぐ日本の知識人について、「秀才は模範解答を書こうとする。自由主義が流行れば自由主義の、軍国主義が流行れば軍国主義の模範解答を書くような人間が指導者になった。」と述べるなど、辛辣な言葉で本質を突く。

 他方で、良書に対してはとことん惚れ抜く。丸谷才一の『笹まくら』について絶賛する文章は、清冽な美しさを帯びている。 「思いがけない不祥事によって現在の日常が崖っぷちに追い込まれた瞬間、浜田の脳裏を阿貴子と初めて結ばれた日の場面がよぎる。そこは桜の咲き誇る隠岐。「晴れやかで悲しくて」滑稽で、胸が痛くなるほど美しいラブシーンである。過去に脅かされ続けていた浜田は、ここで初めて過去によって現実から解放される。 書き言葉の日本語は、これほど柔軟で多彩で的確な表現が可能だったのか。」

 他にも、自分の文学観やものの見方そのものが変容進化していくと評する丸谷才一の『恋と女の日本文学』や、膨大な作品群の細部を漏らさずに丸々ひとつの総体として鷲づかみにしているという亀山郁夫の『ドストエフスキー 父殺しの文学』など、矢も盾もたまらず本を手にとってみたい気持ちになる。

 優れた書評の特色として、評者と書物とが華々しく斬り結び、新たな知見が生まれることを解説で井上ひさしが挙げているように、米原の書評は、作者と評者とがせめぎあい、「思索の火花」を散らして止揚する。
 例えば、浦雅春の『チェーホフ』について、米原は次のように評する。好著であると評価しつつも、常に付加価値を生もうとする、批判の精神が通底している。 「「ここではないどこか」にかすかな希望を託すようになる、と著者は読み解く。たしかにチェーホフの主人公たちはそうだ。しかし、チェーホフ自身は、「ここではないどこか」ではなく、今いるここにしか未来はない、と訴えているように評者には思えるのだが。」

 著者はガンにより56歳で亡くなるが、ガンの告知を受けた後も、死の直前まで書評を書き続ける。必死に本から病についての情報を得ようとする姿、知ることへの渇望に圧倒され、まさに打ちのめされるような衝撃を覚えた。

 本書には心に響く言葉が多いけれど、最後に、子供に語りかける形の大江健三郎のエッセイ『「自分の木」の下で』についての一節を引きたい。迫りくる病の恐怖の中、著者を支え続けたのは、これまで出逢った数多の本の中の輝く言葉たちであったのかもしれない。

「「子供にとって、もう取り返しがつかない、ということはない。いつも、なんとか取り返すことができる、というのは、人間の世界の『原則』なのです」という言葉に励まされ救われる子供が何人もいるのではないだろうか。」
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