２０２０年８月号より。
いつしゆんに光つきささり烈風ありわれ伏してそののちの混沌 田上起一郎
…悲しい報告を記さなければならないが、作者の田上起一郎さんは７月１３日になくなられた。切にご冥福をお祈り申し上げる。「原爆忌」７首の４首目。広島での被爆体験を詠んだ一連のその核心の一首。管見の限りでは、今まで彼がこの体験を詠んだことはなかったのではないかと思う。後付けの物語になるが、あるいは何か思うところあってこの体験は歌にして遺しておきたい、という一連だったのだろうか、とも思えてくる。記憶にあるのは「光」そして「烈風」。そののちは「混沌」と言うほかはない。それゆえに、あえてそれを言葉にすることをためらう期間が斯くも長かったのだろうか。「五年後か十年後には廃れゆく町のような歌をつくってみたい。だから短歌はやめない」と彼は書いていた（「短歌人」２０１２．７、スピーチタイム）。その８年後、一発の爆弾によって毀された町とそこに疎開していた５歳のわれの記憶を詠んで、彼は去って行った。
どういふ立場で物を言ふかと問はれたり�酖脹冤困領�場と答へつ �酖脹冤�
…問われた言葉とそれに答えた言葉のみを記した一首。それぞれシンプルな言葉なのだがその含蓄は深い。「どういふ立場で」と問うた側は、たぶん何ほどか苛立っているのだ。こやつの言うことは既成の枠組にはうまく収まらない、何かわけのわからぬことを言うやつだ、いったいお前は…と問われて、「�酖脹冤困領�場」と答えてやったさ、というのだ。右か左か、保守かリベラルか、ネオリベかコミュニストか、果ては時事詠を是とするか否か、等々。世にはびこる二分法は、ディベートとかいう大いに問題含みの教育方法が推奨されたりするものだから、ごく当り前の思考法のように思われやすい。待て。思想というものはそうした陳腐な枠組から生成するものではない。�酖脹冤困鯤�類するな。俺には俺の思惟の蓄積による固有の立場があるのだ。「わたしを束ねないで」（新川和江）「倚りかからず」（茨木のり子）といった言挙げの詩も想起される。
慎重に触れないように手をかざす あなたが見せてくれた傷痕 姉野もね
…「傷痕」は文字通りにも読めるし、精神の痛手、あるいはいわゆるヴァルネラビリティ（傷つけられやすさ）の開示などとも読める。あなたはそれを隠さなかった。ささやかではあれその治癒を願って手をかざす。ただし、それに触れてさらに傷つけてしまうことのないように。一首の背後には、同様にしてわれもまた傷痕をあなたに見せて…という相互性が存在しているように感じられる。カウンセリング的関係というような陥穽からは自由な境地だろう。
（「短歌人」２０２０．１０「私が選んだベスト３ ８月号」より転載）
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