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2019年10月27日18:17

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本棚210『黄金の時刻の滴り』辻邦生(講談社文芸文庫)

 ゲーテ、カフカ、トーマス·マン、トルストイ、モーム、漱石など十二人の文豪を思わせる人物に、文学の世界に足を踏み入れようとする若者が問いかける。それらは格式張ったインタビューという形式ではなく、各々が劇的な物語となっている。
 会話の内容は「創作の秘密」、物語の書き方を中心としつつ、文学の意義や人生の意味にまで繋がってゆく。いずれも辻邦生による創作であるが、それぞれの作家の作品世界を下敷きにしているので、さもありなんという心持ちになる。
 
 辻邦生作品に通底する、今ここに在ることの幸福。辻は古今の文豪達に仮託して、それを表現する。以前読んだ『回廊にて』では、闇の暗さを徹底して描きこむことで光の強さを強調したが、同様の手法が本作でも見られる。
 例えば、書く至福と創造の苦しみの狭間にあるヘミングウェイの葛藤を描く『永遠の猟人』、エミリー·ディキンソンと出会い地上の生の美しさに気付いた娘を病が襲う『小さな食卓で書かれた手紙』、文学の道を離れ医師として無医村を廻る女性とチェーホフとの愛を描く『わが草原の香り』など、若く素晴らしい者に突然に訪れる死を描くことで、生の儚さや脆さとともに、そのかけがえのなさが照射される。

 表題にもなっている、辻の敬愛するスタンダールが現れる『黄金の時刻の滴り』。スタンダールの激しい恋の終わりと、主人公の若者の妻の死が切ない余韻をもたらすが、その結末により、作中のスタンダールの手紙の放つ輝きが増している。

「地位も財産も考えず(それは過去に生きることだから)、節約も投資も考えず(それは未来に身を置くことだから)、ただ恋の喜びのなかに生きるように生き、嬉しさ、快活さ、明るさ、気どりのなさ、楽しさに酔っていることーそれが現在の〈黄金の時刻(とき)〉を生きるしるしでしょう。日の光の素晴しさを考えて下さい。風が朝露を含んだ野の花をかすかに動かしている情景を見て下さい。夏の昼さがり、夾竹桃のピンクの花の下を、濃い影を刻んで、物売りが汗を光らせて過ぎてゆくのを思って下さい。石も、草も、青空も、雲も、しとど石だたみを濡らす雨も、ぼくには何か甘くおいしい、慾望をそそるものに感じられます。」
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