詩人は、自分の季節を持つ。この間読んだ八木重吉が「秋」なら、きっと高橋順子は「夏」だろう。
殊更に夏の詩が多いというわけではないけれど、彼女の夏の詩が印象に残る。それも、ぎらつくような、力漲る夏ではなく、終わりゆく夏の寂寥や、都会の中でそっと感じる夏。
「朝の八時半だというのに 薄暗くて街灯がともっていた どこか旅先の朝のようにして始まる一日は悪くない 少しずつモヤがはれて でも今日も会社へゆくんだ 夏が来ても 会社というものがあって 地下鉄に乗ってゆく 夏だから夏服を着てゆく」(『夏』)
編集者として勤め人だった著者。日々のルーティーンの生活の中でも、確かに季節が巡ってゆき、それを静かに受けとめる。社会人になりたての頃、この詩になぜか無性に共感したのを思い出す。
あとがきのような「詩を書く私」という文章は、人が詩人になる過程が克明に書かれている。幸福だと、乗り切るべき障害のない平穏な状態だと詩が書けないか、という問いかけが深い。
最後に夏の詩をもうひとつ。 「伊豆急の電車の中に銀色の小物入れを忘れてきたことに気づいて まだ海から戻ってきていない気持にさせられる 夏が終わってしまったのに 終わらせまいとして ちいさな銀の鍵をかけてきたような」(『夏の終わり』)
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