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2019年07月07日21:59

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本棚169『戦中派不戦日記』山田風太郎(講談社文庫)

 「そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで「ねぇ······また、きっといいこともあるよ。······」と、呟いたのが聞こえた。 自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。 数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。あの地獄のような阿鼻叫喚を十二時間前に聞いた女ではあるまいか。 それでも彼女は生きている。また、きっと、いいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。······この細ぼそとした女の声は、人間なるものの「人間の讃歌」であった。」(昭和20年3月10日)

 戦火が苛烈になり、絶望的な状況の昭和20年の記録。当時の銃後の社会、老若男女の人びとの心性を、時に熱情を持って、時にシニカルに描き出す。その緻密な叙述によって、火の海となった目黒の街の熱く乾いた空気、疎開先の信州飯田の美しく涼やかな空気の中に、自身が立っているような思いになる。

 大本営発表などの限られた情報しかない中で、若い医学生の著者は自分の頭で必死に今後の日本の行く末を考える。その眼は、百年先、億年先の遥かな未来まで見つめている。
 他方で、勇ましい言葉を友人たちと交わし観念的にもなる著者に対し、終戦の日も変わらずに黙々と芋を刻み続けていた炊事婦の老婆の方こそが、日本という国を支えているようにも思えた。

 終戦の年の暮れ、寂寞とした故郷の山陰は但馬に帰省した時の記述で日記は終わる。終戦により、これまでの社会や思想が百八十度変わる中、混乱も喧騒も疲弊も全てを包み込んで、雪は静かに降り積もり、「運命の年」は暮れていく。「囲炉裏ばたにて終日茫然。傷つける獣の炉の火に血を乾かしおるがごとし。」「昨夜よりの雪、満地をかがやかして清浄燦爛。」

 国破れて山河はあった。そして、冒頭のような、ささやかな希望も。
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