ミステリーを中心とした幅広いジャンルの読書をはじめ、落語や歌舞伎、映画など、著者の様々な対象への興味が垣間見られるエッセイ集。
40歳という少し遅めの作家デビューだった著者の内では、芳醇な美酒のように、こうした多様な経験の蓄積が醸成されていたのだろうー書かずにはいられない時の訪れを待って。
「日常の謎」の嚆矢であり、日常生活の中に潜む人間心理を描くのを得意とする著者らしい、ささいなことを見逃さない鋭い観察眼が感じられた。
例えば、戦時中の歌舞伎座で収録された『勧進帳』。「これは、見事な恋愛劇で、義経と弁慶の不動の愛を見た富樫が、ーそれは終生、自分の手には入らぬものと思い、涙するように思えた。」
すべてを理解した富樫が、去っていく場面で、涙を呑んでくっと上を向くという仕草。見落とされてもおかしくないその一瞬を、北村薫は心に刻んだ。
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