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2019年05月09日22:31

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本棚148『時雨みち』藤沢周平(新潮文庫)

 市井の職人や隠密など、この短編集には様々な人物が現れるが、人間の心に潜む弱さや悪を切り出したり、一時の惑いから報いを受けるような、人間の業を感じさせる哀切な話が多い印象を受けた。
 
 その中で、映画にもなった「山桜」は、北国の厳しい冬の後に山間でひそやかに花がほころぶような、あたたかな読後感を与えてくれた。
 主人公の野江は若くして夫を亡くし、再嫁した家でも出戻りと蔑まれる。ある時、かつて些細な行き違いから、会いもせずに再婚の縁談を断った武士の手塚弥一郎が、自分のことを真に愛していたことを知る。その後、民を苦しめ私腹を肥やす藩の重役を刺殺した弥一郎は牢の中で静かに沙汰を待ち、弥一郎を侮辱した夫をたしなめた野江は離縁される。
 事件の後、訪れる者も無くなり、ひとり暮らす弥一郎の母を、意を決して野江は訪ねる。かつて縁談を断ったことなど気にせず、野江は優しく迎えられる。ラストのこの一瞬、二人をふわっと包み込むささやかな幸福な空気がとてもいい。山桜には、満開のソメイヨシノの並木の絢爛さはないかもしれないが、確かに美しい。たとえ回り道をしても、きっと人は幸せになれる、と教えられた気がした。

「履物を脱ぎかけて、野江は不意に式台に手をかけると土間にうずくまった。ほとばしるように、眼から涙があふれ落ちるのを感じる。とり返しのつかない回り道をしたことが、はっきりとわかっていた。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。」
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