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2019年01月03日09:47

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人生意気に感ず「人生の原点を訪ねる。老婆の手は昭和と平成の鼓動を伝えた」

◇思い切って、ある人を訪ねた。私の運命に関わる人と言っても過言ではない。急がねばというある種の予感があった。昭和15年生まれの私の人生の方向を決定付けた出来事は昭和20年に一家が赤城山の奥地に開墾に入ったことである。私は満5歳だった。それまでは前橋市の曲輪町(現大手町)に我が家はあった。戦争と敗戦が異常な事態であることは子ども心に分かっていた。前橋大空襲で炎を背にして逃げた。翌日の見渡す限りが廃墟と化した光景はこれが戦争なのだということを何よりも雄弁に語っていた。母は言った。「これからアメリカ軍がやってくると、もっと酷いことが起こるのよ」。様々な風評が飛び交っていたのだろう。我が家は生き延びる方法を求めて赤城山の山中に逃れたのだった。私は、終戦前にある衝撃的な場面を目撃した。それは二人のおじさんがネズミを串に刺して焼いて食べている姿だった。母が言う「もっと酷いこと」とは食料難のことだと思った。しかし、大人たちが恐れていたことは別次元の地獄であったに違いない。
 開墾に入った所は人家から遠く離れた山中で、我が家が掘立小屋を造った場所は深い谷のどん詰まりだった。このあたりに私たちより前から住んでいた家が3軒あった。そのうちの一軒では一家が米俵にもぐって寝ていた。それはこれからの山の生活が並々ならぬことを幼心に突きつける衝撃の姿と映った。
 我が家は一年位で開墾を諦めて下の集落に移り、3軒の人々もその後はそこに住まなくなったが、そのうちの一軒は近くで牧場を行った関係で、私は後年政治家になってからも時々この家を訪ね私の幼少時を知るお婆さんと昔を懐かしく語り合った。平成最後の年となり、昔の我が家の開墾のことを知る人はこのNさん唯一人になっていた。
 「お婆さんは?」「血を出して入院した。今、K病院に居る。危ないよ」。外国から来た嫁さんは語った。もう少しで94歳になるという。そこに中学3年生という男の子が現われた。しっかり勉強しており成績も良いという。私は昔の私の姿と重ねた。私はすぐ高崎市の病院に飛んだ。ICU室で顔もすっかり小さくなり別人のようなNさんは、私を一目見ると「のりおさん」と分かってくれた。Nさんは私が訊ねるままにあの山中のことを語ってくれた。忘却の彼方に薄れようとしていたことが甦ってきた。Nさんの手は温かかった。それは昭和と平成の時代の鼓動を伝えていた。(読者に感謝)


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