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2016年08月05日08:58

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『東京日記』 (内田百��)


三島由紀夫は内田百�里両�説を評して『俳画風の鬼気』と言っている。

事実、『東京日記』 も、そのように評してもよいだろう。

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この小説は23の短篇によつて構成されている。

その、いずれの話も、なんでもない 「日常性」 のなかで、「私」が体験する、「非日常性」 である。 幽霊や鬼婆が出てくるわけでもない。

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私は前の日記で『日常性の中の不条理』について書いた。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1954578200&owner_id=59308909

この日記で 『NHKラジオの日曜名作座という番組で、百鬼園夜話と題された語りが放送された』と書いたが、まさに、『東京日記』 のいずれの話も、「私」が体験する、『日常性の中の不条理』 である。

その 『不条理性』 は、「私」だけが体験するもので、悪夢、というより、一種の 「拠り所の無さ」 の体験である。

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私自身が、よく見る夢に、「自分が何処に居るのか分からない」 とか 「自分の行く場所が分からない」という、或る 「拠り所のなさ」 で不安な体験をすることがある。これは夢なんだと夢のなかで思っているときもある。

このような体験は精神分析上で、何か説明できるのかどうか私は知らないが、ともかく私は、私自身の体験として、自身の 「拠り所のなさ」 を実感する場合が多々ある。

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この 『東京日記 』の、どの話も、「私」という者の 「拠り所のなさ 」と言えるだろう。

( 夏目漱石の 『夢十夜』 の話と共通点があるかも知れない。しかし 『夢十夜』 よりも、内田百�里寮こΔ蓮△茲蝓巍K罅廚如∋暗舁概�夫が評したように 「俳画風」 である。)
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そういう意味で、特に私が面白いと思うのは (その8) の話。

この話に登場する「女」は、落語の「むじな」ようでもあり、また、『思い出そうとしても、どうしても思い出せない「女」でもある。小泉八雲の『怪談』をも連想させる。

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ちなみに、三島由紀夫が、『私にはいまだに怖いのは (その16) のトンカツ屋の話』だそうである。

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