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2015年12月04日09:38

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人生意気に感ず「栗生楽泉園のこと。重監房に入る。プロミン秘話。靖国の爆発」

◇昨日、草津の楽泉園で藤田三四郎さんの話を聴き、重監房資料館を見た。元患者で89歳の藤田さんの記憶力は正に驚異的。そして、重監房の実態はこの世の地獄というべきで、私は四畳程の空間に横たわり壁に残る呪いの字を見た。
 「楽泉園」には全国にない特色が2つある。1つは「患者の自治」の一帯が存在すること、もう一つは「重監房」の存在であった。自治会は現在も健在で前記の藤田さんは自治会長である。重監房は、「特別病室」と呼ばれたが、病室の実態は皆無で、裁判もなく入れられる「刑務所」であり、アウシュビッツ以上のものであり、差別と偏見が生んだ極致であった。
 重監房は昭和13年(1938)から昭和22年(1947)まで続いた。日本民族が体験した狂気の時代と重なることが重要である。太平洋戦争勃発は昭和16年末であるが、実質的にその一部というべき日中戦争は昭和12年に始まっていた。「らい」(ハンセン病)の人々に対する差別と偏見の歴史は古く、かつ悲惨であるが、戦争の気運が進む中で、らいは国辱と見られる傾向が加速した。
 らいは遺伝病であり恐ろしい伝染力をもつという誤解を基礎にした「らい予防法」による隔離政策が進んだ。強制収容だから抵抗が生まれる。らいの人々を正式に裁判にかけ通常の裁判所に入れることは出来ない。そこで生まれたのが楽泉園の「重監房」だった。療養所の所長に秩序維持のため「懲戒検束権」が与えられ、この権限に基づいて、所長の判断で重監房に入れられた。裁判手続きなしだから人権無視もいいところ。じゃがいもを盗んだとかで入れられた人もあった。94名が入れられ23名が死んだ。零下20度。暖房はなく、狭い空間には電気もない。証言をもとに再現された四畳の部屋の薄い布団に私は横になった。見上げる視線の先に怨みの文字があった。「本日まで七十余日、無実の罪で入る、石井・・」
◇藤田三四郎さんから興味ある話しを聞いた。特効薬プロミンの原形のものはアメリカにあったが、当時日本はドイツと手を組んでアメリカと戦争中。ドイツから提供された戦闘機の片隅に一冊の医学書があり、これが東大薬学部に渡り、石館守三教授のプロミン合成の成功につながった。プロミンの効果は絶大だった。
◇靖国神社の爆発の犯人として、韓国人が浮上している。重大な問題に発展しそうだが改めてテロの危険とその容易さを痛感した。(読者に感謝)

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