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2015年10月06日12:12

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「短歌人」の誌面より(87)

9月15日の日記(*)の、少女が「アラベスク」をさらっている歌の作者の方に、先日お目にかかる機会がありましたので、その歌についてうかがってみましたら、作者としてはブルグミュラーの「アラベスク」のつもりだったとのことでした。mixiはごらんになっていない方なので、こんなやりとりがあったんですよとて、9月15日の日記(コメント欄も)をプリントしてお送りしました。
(*)http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946075183&owner_id=20556102

で、ちょっと遅くなりましたが「短歌人」2015年9月号より。

亡き父が包丁を手に亡き母を見すえた過去も西瓜の甘さ   倉益 敬

…巻頭9月の扉「西瓜を食べながら詠む歌」の「すいか甘いか塩っぱいか」8首の1首目。ただならぬ記憶が呼び出された場面。父が握る包丁は、例えば西瓜を切るためだったのか、あるいはほんとうにあと一歩で母を刺すところだったのか。ともあれ両親の関係は険悪の際にまで至っていた。その時、われはまだ子どもだったのだろうか。遠い過去となればそんな記憶も西瓜のような甘さに包まれる、と詠いおさめて、類を見ぬ西瓜の歌となった。

たれを待つといふにあらねど待ちゐたりオクラの花に月およぶまで   藤本喜久恵

…「待つ」という行為をその最深の域において詠んだ歌。何時何分に何処で待ち合せて…、というようなことを、ふつう、「待つ」と言うが、それはきわめて便宜的な「待つ」であって、真に「待つ」のは何のあてどもないのにただひたすら「待つ」という行為、ないしは境地であろう。例えば祈る者が「待つ」という時、そうした位相での「待つ」があらわれるだろう。そこへ4句〜結句のきれいな景を付けて印象的な一首に仕上げている。

武田クンそんなニュースを読みあげて恥づかしいだろ気の毒な人   大橋弘志

…「武田クン」は夜7時のNHKテレビのニュースを担当している若い男性アナウンサーだろう。もとより彼にはニュースの編集権はない。渡された原稿をわかりやすく読み上げて視聴者に伝えるのが武田クンの役目なのだが、御案内の通り最近のNHKのニュースはひどい。ほとんど政権の広報かと思うような編集がなされていて、それもこれも安倍首相がお友達をNHK会長に送り込んで以降のことである。武田クンとて、こんな原稿は読みたくないなあ、と内心思いながら、役目上やむを得ず読んでいる時も多々あるだろう。政権の狡猾とNHKの報道の現場の覇気のなさを、ユニークな切り口で詠んだ歌だ。

復員の父の水筒、飯盒をござにならべてままごとあそび   越田慶子

…掲載7首のラストの歌。ひとつ前の6首目は《ふりつもり層なす記憶のおくそこに父のかぶりし鉄兜あり》。もうひとつ前の5首目は《詠うこと難くはあれど見すごせぬげに蛮勇の安保法案》。「詠うこと難くはあれど…」と言いながら、越田さんはその歌の後に、復員した父にまつわる記憶を詠んだ2首を置いた。安保法案がわれに想起させるものはこのような記憶だ、ということだろう。幼かったわれは父の持ち帰った水筒や飯盒がどのような場で使われたのかなどということは考えもせず、それを使って無邪気にままごとあそびをしていた。水筒も飯盒も永遠にままごとあそびの用具であり続けますように、という祈りが伝わる。

病室の窓ふりかえり振り返り手をふる人のかたわらを行く   田中佐智子

母宛の投票案内すてられず在りし日確かめ又しまいおく

…一連5首の1首目と5首目。今、小池光さんの新しい歌集『思川の岸辺』を半分ぐらいまで読んだところだが、おつれあいをなくされた後あたりの歌にはたっぷりと涙が含まれている。この田中さんの2首も涙の歌だ。1首目だけ読むと、どのようなシーンかがわかりにくいが、5首目とあわせて読むと、きゅん!と胸が締め付けられる思いがする。病室の窓をふりかえって手を振る人は、お見舞いの帰りなのだろうが、その病室には近しいひとが患者として入院している。しかしそのひとはこの世にあって病室にいるのだ。そのかたわらを行くわれの母は、もう病室にはいない。もうこの世にはいない。おそらく、霊安室という病院のもうひとつの出口に母がいる頃の歌ではないだろうか。母がこの世に在りし日に届いた投票案内は、用なきものとして捨ててしまう気持ちになれず、これが届いた日はまだ母は生きていたんだ…、と思ってまたしまいこむというのである。ドラマをはらんだ2首である。

耳立てるじっと見つめる尻尾振る言葉話さぬ犬だから飼う   川前 明

…初句〜3句すべて終止形で切れていて、こういう詠み方はうまくゆかないことが多いが、この歌ではうまく決まっている。飼い犬のしぐさの断片を3つ並べて、かわいいとも何とも言っていないが、われの気持ちはおのずと伝わる。もしこの犬と言葉がかわせたら、かえってわれと犬との関係は浅くなるかも知れない。しかり。言語以前の大海に犬とわれとはいるのである。言語以前の域のなつかしさなどと言うと、歌を詠む人や論文を書く人などは、日頃「言葉」に拠っているがゆえに、そういう発想は後ろ向きだなどと言われることがままあるが、そんなことはない。その大海があってこそ、「言葉」という島は所を得ているのだろう。マルティン・ブーバーの「我−汝」も、先ず、「樹」が「汝」だったのではなかったかと思う。

盗人の手もてつらつら心経の二百六十六文字連ね   朝生風子

…般若心経を写経している場面。そのわれの手を「盗人」の手と言ったのがいい。われは人間である。人間の本質は「悪」である。ゆえにわれは「悪人」の手をもって心経を写しているのだ、と理屈として言えばそういうことだが、「悪人の手もて」ではストレートすぎる。「盗人」という言葉の選択が、過不足なく決まっていると思う。結句末尾「連ぬ」と終止にせず「連ね」という連用言いさしにしたのも効いている。二百六十六文字を連ねてさあ、それでいったいどうしようというのだろう、この「盗人」めは。

並はづるる剣技のわれにもしあらば与党政治家殺め尽くさむ   西澤一彦

…しかり、しかり、と頷いた。こういう過激な批判もあっていい。僕も、直近の選挙で与党に入れた連中は全員処刑すべし、などと思ったことがある。もとよりこういうことは思うという域にとどめておくのがよろしい。

せきれいと十秒がほど対峙して彼は空へゆき此は地にのこる   弘井文子

…なにほどのことも言っていない歌だが、つまるところ歌というのはこういう詠み方に至って円熟してゆくのではないかと思う。僕はまだそのずっと手前にいて、なんだかんだとおもしろがって詠む者にすぎぬ(と歌集を作ってみてよくわかった)。「彼」は「か」、「此」は「し」と読んでもいいが、「か」とのペアなら「こ」だろう。彼は空へ行った。此、すなわちわれは空へ行くことかなわず、ここ、地の上に残った。それだけのことだが、一首末尾まで読み味わった読者は、この歌の冒頭へ帰って再びこの一首を読むようにうながされる。こうしてこの「十秒がほど」は永遠になるのだ。「鶺鴒」と漢字にすると一首の頭が重くなり、「セキレイ」とカタカナ書きにすると「動植物名としての」というニュアンスが入る。ここは「せきれい」のひらがな書きがベストだろう。


【最近の日記】
小島熱子歌集『ぽんの不思議の』
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946543212&owner_id=20556102
10月号「短歌人」掲載歌
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角川「短歌」にて紹介していただきました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946469094&owner_id=20556102
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