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2015年08月12日11:29

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その後の日本とドイツの比較




  「ハイル・ヒットラー」の続きだが、それでドイツ軍は何千万人も殺し、ドイツ人自身も何百万人も殺され、共に深い傷を負った。二度の世界大戦でヨーロッパのほとんどが戦場になり、悲惨な体験を人民がしただけでなく、国家にとっても戦争はマイナスである事を悟り、特にヨーロッパ内の和合を目指し、次第に今のEUになっていった。ネオ・ナチなどの例外もあるが、彼らは「国家とは? 平和とは」を強く見つめて、外交にも力を入れている。

  それに対し、日本では戦時中に「お国の為に」とお上から命令されるように言われて、戦地に行かされたり、勤労奉仕もさせられたため、どうも国とか国家の事を口にするのがタブーみたいになったようである。「国家」と言うと、「あいつは右翼じゃないか」と誤解もされるなど。確かに、上位者から押し付けられるように「国家」を言われた以上、それが反動的に嫌いになるのは人間として仕方ないだろう。ただし、「国家」を口にできないのならば、まず、中国に攻め込んだ国家責任の事も出てこない事になる。

  それから、国家あっての外交だから、外交の事もかなりが無関心になり、その影響で政治家たちも重きを置かなくなる。それが今回の新安保の問題にも現れている。賛成派・反対派共、「外交」の事を置き去りにしているとしか、僕には見えない。外交抜きで、いきなり安保や軍事の事をしようとしてもできないわけである。

  そして、国家意識が封印されたならば、愛国心も封印される。そのエネルギーは「お金」に向かったと思える。戦後の日本人はお金を第一の価値観みたいにしている感じだと。ヨーロッパには見られない現象。確かに、国家に心が向かわなくなったのならば、お金に向かうのかもしれない。お金を一番に考える発想は本来の資本主義とも違うものかもしれない。やはり、毛沢東後の中国も同様の状態があろう。文化大革命の時に「国家奉仕」みたいな事をお上から強制されたから、今はそのような事は思いたくもないと。

  因みに、日本人が国家に再び向き合う時は、かつての戦争の国家責任についても意識するようになるのかもしれない。未来の事は判らないが、そんな気もする。

  ドイツを鏡にして、日本の事も見えてくるようである。

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