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2015年02月25日09:22

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フォルムの実際 19世紀 ゾラと印象派

フォルムの実際 19世紀、小休止 ゾラと印象派
 モネと人妻であるアリスが一緒に暮らしていたことで、パリでは、モネとアリスが不倫関係にあった、と言う噂が流れていた。アリスの末息子である、ジャン=ピエールの父親はモネだと言う噂だ。いろいろ調べてみたのだが、決定的な証拠はなく、真相は薮の中だ。1880年の印象派展にはモネやルノワール達が参加しなかった。ドガと意見が対立したのが原因のようだ。その後、印象派展は、ドガが中心となって開催されていく。モネと仲が良かったのがルノワールで、ルノワールは、度々モネの家を訪れて、モネやカミーユの肖像画を描いていた。印象派展は話題になり、新聞や美術系の雑誌で取り上げられ、いろんな評論が載っていた。印象派を叩く評論家がいた一方で、擁護していた記者も存在する。その代表格が、エミール・ゾラで、自然主義派の小説家だが、若い頃には美術評論を執筆していた。サロンで落選したマネの草上の昼食を擁護する記事を書いたのがゾラで、この記事は物議を醸しゾラ自身が袋叩きにあった。自然主義派だったゾラは、サロンに対して批判的だったのだ。ゾラはセザンヌと幼なじみで、その関係からか、印象派に対して好意的な執筆をしていた。そのゾラも、後年は、印象派に対して批判的になっていく。写真を引き合いに出してアカデミックな作品を批判したのもゾラのようだ。写真と古典絵画を関連付けて批判するやり方は、今でもステレオタイプの批判として定番化しているが、100年以上も前に始まった話しだ。色彩分割も、デュランティによって提唱されている。印象派研究の中で出てきた言葉だ。それが、今でも筆触分割として語られる。確かに細かな筆致で描かれているので、筆触分割は間違いではないだろうとは思うが、ただ表層的な現象を指摘しているに過ぎない。油彩画にとって重要なのは色彩の積層による発色表現であって、モネの筆致にしても、分割ではなく、筆致の絡みによって色彩が表現されている。モネの筆致の基本はハッチングだ。色彩分割、筆触分割は、印象派の画家と言うよりは、新印象派の絵画、つまり点描表現の方が近いのではないだろうか。ゾラは、初期の頃は、印象派に好意的だったのだが、途中から、印象派に対して、不満を持つようになっていく。曰く、印象派は、技術的に不十分で、目にした物をリアルに表現できないようでは所詮先駆者に過ぎない。曰く、モネは、急ぎ過ぎの制作に疲弊し大概のところで満足してしまい本当の創作者の情熱を持って自然を研究していない。曰く、印象派の画家達は、いずれも先駆者であり、天才的人物は生まれなかった。傑作はどこを探しても見当たらない。曰く、マネや印象派の画家達は、いつまでも円熟しない。この批判は、現代でも印象派批判に使われるだろうが、当時ゾラが言っていた言葉だ。印象派とサロンとの関係の変化を表す言葉もある。アカデミーの画家が、まるで印象派の生徒になったかのようだ。と言うもの。これは、印象派の絵画が人気になり、アカデミー系の画家が、印象派の絵画に影響されて来ている事を示している。サロンの画家達も、印象派を取り入れた折衷的な絵画を描くようになっていく。いわゆる外光派だ。この折衷的外光派の絵画が日本に入ってきた西洋絵画だった。初期には、ゾラも印象派に期待していたようだが、途中で失望に変わっていったのが見て取れる。1885年に、ゾラは、印象派の画家達がモデルと思える作品、制作、を発表、この作品の中で、ゾラは印象派をディスり、印象派の画家達との関係が悪化してしまう。そんなゾラを評して、エドモン・ドリュモンが言う。マネには、強い印象の光景を素早くとどめる眼と、筆致の確かさがある。しかし、ゾラにはマネのような即興描写ができる才能はなく、ゾラの文学の方が、マネの絵よりも、はるかに古典絵画に近い、と。自然主義絵画が、古典絵画に近いのと同じだ。そのゾラは、ローマに旅行に行き、ミケランジェロの最後の審判を見て、ノックアウトされてしまう。アングルもそうだったが、フランスのアカデミック絵画は、良く言えばローマ礼讃、悪く言えばローマコンプレックスの塊。憧れと劣等感がないまぜになっている状態だ。それがフランスの当時の現状だった。それはゾラも同じだった。やはりミケランジェロの圧倒的な力量に圧倒されてしまうのだ。西洋絵画の胆がこの当りにあるのだろう。1880年代は、印象派への評価が代わり始めた年代だ。それまで印象派を批判していた評論家が印象派を賞讃し始める。印象派が評判になり始め、風が変わってきている事を察知したのだろう。評論家とはそう言うものかも知れない。そう言う意味では初期の段階から印象派を認め、その問題点も指摘していたゾラの眼力は本物だったのではないだろうか。小説、制作、は、発表が早過ぎたのかも知れない。確かに、1885年時点では、印象派にスポットが当り始めた段階で、まだまだ世界的な認知とまではいっていない。だが、それまでのフランスの絵画が、ローマコンプレックスまみれだったのに比べて、印象派の絵画は、まさに、フランス人によって生み出されたフランスの絵画だった。印象派の世界的評価によって19世紀の西洋絵画の中心はフランスだと言う認識が一般化する。そんな未来をゾラは、予想する事ができたのかどうか。かすかに幼なじみのセザンヌには期待をしていたようだが、この時点でセザンヌは、まだまだ、印象派の中でも異端児扱いだった。
 現代、印象派の時代のサロン系画家や絵画が再評価されてきている。ブグローがそうだし、カルロス・デュランもそうだ。一時期印象派一辺倒で、当時の印象派以外の絵画が鑑みられなくなっていた。これは印象派否定ではなく、様々な作品を冷静に評価しようと言う動きだ。現代絵画の行き詰まりもその切っ掛けの1つになっている。理屈をこねくり回して絵を描くのではなく、もっと素直に絵を描いていこうと言う提案がなされ、描きたい絵を描きたいように描くと言う選択肢の中に、古典絵画があり、その流れの中で19世紀の西洋絵画の見直しが行なわれるようになった。具体的な描法の研究も行われており、この流れが日本にも入ってきている。元々日本の西洋絵画は外光派の絵画なので、日本の西洋絵画と現代の西洋絵画の流れとが、離反するものではないのだが、日本では、印象派の絵画を描いて来たと思い込んでしまっている人が多いので不思議なパラドックスが起こってしまっている。どうして、日本の西洋絵画の教育で、石膏デッサンばかりさせられるのかを不思議に思う人もいただろうが、日本にはサロン系の絵画教育が導入されていたからだ。日本の美術系大学では、けっして印象派の絵画を教えていた訳ではない。日本の美術大学系の画家と一般の絵画愛好家とでは、かなりの意識の違いが存在し、これが、芸大系の黒田清輝と白樺系の印象派礼讃との相違となって現れる。
画像は、左がルノワールの描いたモネの肖像画、ルノワールはモネの肖像画を何点も描いていた。モネの肖像画を見て、気付く事がないだろうか、そう、モネは黒髪に黒い瞳を持っていた。これはアルプスの少女ハイジと同じで、黒髪、黒い瞳の民族の遺伝子を受け継いでいるためだ。ヨーロッパでは黒髪に憧れる人が意外に多いようだ。黒髪は黒く描く事が非常に重要になる。右は、 カルロス・デュランが1867年に若き頃のモネを描いた肖像画。カルロス・デュランはモネの3歳上で、若い頃に親交があった。デュランは、ベラスケスの流れを汲む画家で、サロン系の画家だが新古典主義とは一線を画している。サージェントはカルロス・デュランに師事。その関係からかモネとも親交があった。サージェントもカルロス・デュランも非常に有名な画家なのだが日本ではあまり紹介されていない。原語で検索されたい。
 Carolus Duran そして、John Singer Sargentだ。

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