mixiユーザー(id:5462733)

2015年02月12日10:07

402 view

フォルムの実際 19世紀 社会的変化

フォルムの実際 19世紀 社会的変化
 新古典派によるフランスの美術界支配は、旧態依然としたやり方で、絶対王政の時代ならともかく立憲君主制、そして共和制の元では独裁として批判される。実際、サロンを批判する美術家達は多くおり、落選の不満が噴出し、落選展を開催する事になる。政府としても、新古典派を重用してはいたが、やはり他の画家達の主張を無視する訳にはいかず苦慮していたようだ。市民の意見を重視する傾向は、絶対王政が終わったフランスに起こった大きな変化だった。新古典派の画家達は、印象派に限らず、他の画家達も敵に回しており、権力は握っているとは言っても、絶対的優位に立っているとも言えない状況だった。新古典派の地盤は揺らぎ始めていたのだ。その影響が強く出たのが普仏戦争(1870年)でのフランスの敗戦だった。戦費だけではなく多額の賠償金を求められフランス政府の財政は逼迫する。それまではサロンは官展として政府が運営していたのだが、美術展の民営化の動きが出て来た。フランス政府は、美術展どころではなくなっていたと言うのが実情だったようだ。そして、ついにサロンは、フランス芸術家協会主催となり、1881年に民営化される。モネ達が独自で印象派展を開催したのが1874年で、この民間による美術展の独自開催は、財政が逼迫しているフランス政府にとっては都合が良かった。新古典派は、子飼の評論家を使って印象派絵画を攻撃してはいたが、フランス政府としては印象派展は歓迎ムードだったと言うのが真相のようだ。つまり、フランス政府もサロンを持て余していたのだ。サロンへの不満を抱く画家も多かったため落選展開催の要望も強く、一々落選展を開催していたのでは美術展の意味がない。財政的理由もあって、政府はサロン民営化に大きく傾き始める。モネ達印象派の画家達にとっては、1870年代は非常に苦しい状況ではあったが、風は印象派の画家達に吹き始めていた時代でもあったのだ。サロンの中でも改革派と言われる画家達が存在感を増し始め、サロンも時代の流れの中で変化し始める。ブグローが改革派の代表格だった。1890年、ブグローは民営後のサロンを改革しようと動き出すのだが、意見が対立し、サロンは分裂する。その後、さらに分裂を繰り返していくつかの協会に別れ、別々の展覧会を開催する事になっていく。
 モネの絵画は1870年代に変化を見せ始める。元々モネの風景画は、高いレベルにあったのだが、新しい試みが結実し始めるのが1870年代だ。比較的明るい強い色彩を多用するビビッド感を強調した風景画と比較的色彩を押さえた風景画が混在する。モネには、色彩を多用したいと言う思いはあったのだが、ただ、ビビッドな色彩を使ったからと言って満足できる風景画が描ける訳でもない。モネの主眼は、鮮やかな色彩を使う事ではない。色彩を使いながら完成度の高い絵画を描く事にあった。これは、他の印象派の画家も同じだ。ここを勘違いしてはいけない。色彩は手段であって目的ではない。この時期のビビッドな色彩を使った風景画は、まだバランスが悪く、色彩の響き合いにやや欠ける傾向がある。色と色を結び付け、関係性を持たせるベースが弱いのだ。色彩がメロディだとすればリズムが弱い。そこで、筆致でリズムを刻もうと試みる。またテンポも変化させ、スピードの変化も表現するようになる。この時代になるとモネはかなり高度な描法を使うようになっており、一般の人には理解するのが難しいかも知れない。
 画像、1874年から75年ぐらいの作品を集めてみた。比較的ビビッドな色味の作品と、落ち着いた色味の作品が混在している時期だ。ここが、重要で、その時々の課題をはっきりさせて描写を試みている。モネの中では、まだ、色彩と造形がしっくりきていない時期になる。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年02月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728

最近の日記