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2015年02月11日10:21

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フォルムの実際 19世紀 冬景色

フォルムの実際 19世紀 冬景色
 モネは、1860年代後半から70年代、沢山の雪景色を描いている。モネが雪景色を描くのは浮世絵の影響ではないかと考える人もいる。それまでの西洋絵画には雪景色があまりなかったからだと言う理由を上げる。これも、日本がフランスから西洋絵画を学んだ弊害だろうと思われる。実は、西洋絵画には昔から雪景色を描いた絵画が沢山ある。モネの先輩で親交のあったクールベも雪景色を描いていた。それだけではなく、その前の時代の西洋絵画には冬景色と言うジャンルが存在し、雪の景色は結構人気でもあったのだ。直ぐに思いつくのがピーター・ブリューゲルの雪中の狩人だろう。美術の教科書でも良く紹介されている。日本人の絵画愛好家は、沢山いるのだが、パソコンで西洋絵画を検索する時に日本語で検索してはいないだろうか。日本に紹介されている西洋絵画には偏りがあって、日本語で西洋絵画を検索すると特定の絵画しか表示されない傾向がある。できるだけ英語で検索して欲しい。分かりやすい例が石膏デッサンだ。もちろん、日本語の、石膏デッサン、で検索すると日本人が描いた石膏デッサンしか表示されない。海外の石膏デッサンを見てみたい時には英語で検索する必要がある。石膏デッサンの英訳は、Cast drawing だ。Cast drawingで検索すると海外の石膏デッサンが多数表示される。油彩での石膏描写の場合は、Cast painting になる。石膏デッサンは画家はあまりやらないので海外の画学生が描いたデッサンをアップしている場合が多い。日本の石膏デッサンとかなり雰囲気が違うので比べてみると参考になるだろう。風景画の英訳は、Landscape Paintings だ。これで風景画が沢山表示される。冬景色や雪景色の場合は、Landscape Snow scene または、Winter Landscape Paintings 等。本当に沢山の冬景色を描いた油彩画が表示される。その中で、古典絵画っぽい描法で描かれた絵を探してクリックすると年代や地域、画家の名前等が検索できる。日本では、一般的に、ほとんど紹介されていないような古典絵画の風景画家が沢山存在するのだ。19世紀になるまでフランスは、西洋絵画の中心ではなかった訳で、19世紀以前の優れた西洋絵画を調べるには、フランス以外の国の絵画が多くなってしまう。西洋絵画の歴史は長いので、19世紀以降の絵画だけを見ていても良く理解できないだろうと思える。フランスの新古典派は、ラッファエロ以降の西洋絵画をほとんど研究していないので、ラッファエロ以降の西洋絵画がほぼ無視状態になっているため注意が必要だ。この傾向がフランスから西洋絵画を学んだ日本にも伝わっていた。確かに新古典派の画家は、冬景色はほとんど描いていない、新古典派の価値観の中では、風景画や静物画は価値の低い絵画と言う考え方があるため、風景画を描く画家も少なかった。人物画にしても序列があって、肖像画は低く見られていた。新古典派の画家達がかってに決めた価値観で、実際の西洋絵画では風景画も静物画も沢山描かれていた。ネーデルラントでは風景画が盛んで、ルーベンスも風景画を熱心に描いているし、静物画や動物画を一段低く見る傾向は持っていなかった。もともと西洋社会は階級社会で、身分による上下の振り分けがされていたため、絵画をも階級に分ける事に不自然さは感じなかったのだろう。それにしても新古典派は、絵画のジャンルや描法に対して差別的とも言え、評価の差が極端過ぎるきらいがあった。現代では、そのような差別的評価は否定されているので、新古典派の考え方は受け入れられていない。難儀なのは、新古典派が、ただの派として存在したのではなく、政府と結び付いて権力を持っていた事だ。フランスでは、政府の美術政策や教育、官展にいたるまで新古典派の価値観が浸透していた。権力と戦うのは骨が折れる。モネも若い頃は、ほとんど評価されず、したがって絵画も売れず金銭的に苦労したようだ。貧乏画家のイメージも当時の印象派の画家から始まったのではないかと思える。10年程の画家としてのキャリアがありながら、絵画のスタイルの違いでサロンに出品しても落選させられる。サロンにおもねる評論家達は、モネ達落選組をくそみそに批評する。権威を手にし、金銭的にも恵まれた画家達がいる一方で、モネ達は金銭的にも、社会的にも評価されない苦しい立場に立たされていた。サロンに入選して、広く自分達の作品を観てもらうという画家としての道が意図的に断たれてしまっている訳で、かなり深刻な状況だった。優れた作品を描けば評価される、と言う当たり前の環境すらないのだ。どんなに素晴らしい作品を描いても評価されない。画家として、これは辛い。モネ達は、若手の画家が集まってグループを作りがんばっていた。権威との決別を決意するのもこの頃だ。サロンに頼らず独自の展覧会を自分達で開催する。それがモネ達が出した打開策だった。第一回印象派展が開催されるのが1874年。1870年代のモネの絵画に、大きな変化が現れ始める。だが、やはり行ったり来たりは続いていた。ビビッドな色を使って風景画を描いてはみるのだが、どうも思うようにいかないようで、色を押さえた風景画も描いてみる。色を多用すると造形が壊れてしまう、それをモネは嫌っていたようだ。造形を保ったまま、色を使えないだろうか、そういう方向性でモネは模索している。実際には造形を壊してしまった方が楽だったのではないかと思われる。だが、モネはそれを目指さなかった。ここがポスト印象派との大きな違いだ。バルールとの格闘が続く。

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