今朝放送された「NHK短歌」(選者は加藤治郎さん)の入選歌の中に、次のような一首がありました。
半熟たまごの黄身だけ吸いながら家族を作る夢を見ている 日野寛子
そして、この歌についての加藤さんのコメント中に、次のようなくだりがあって、ちょっとばかり僕は戸惑ってしまったのでした。以下、ビデオの音声をそのまま起こします。
「上の句、半熟た、まごのっていうことで、句跨りになってるんですね。棒のように力強い感じ、で、下の句はむしろ穏やかに、七七で、穏やかに歌われている、と・・・」
半熟た/まごの黄身だけ/吸いながら・・・
こんな句跨り、アリかあ? 僕の感覚では、この読み方は受け入れられません。
ごく自然に読めば、 半熟たまごの/黄身だけ/吸いながら・・・ というように、初句8音、第2句が4音という破調、そして第3句以降は定型通りの歌なのではないか。仮りに「たまご」のところを句跨りだとして読むとしても、「た/まご」はないでしょう。「たま/ご」でしょう。 半熟たま/ごの黄身だけ/吸いながら・・・ ならばまだしもわかります。
それにしても、句跨りというのは、何かそこでギクシャクした感じを出したい、あるいは句跨りになる言葉(この場合は「たまご」)を強調したい、あるいは素直にその言葉が言えなくて、躊躇しつつも、え〜い、言ってしまえ! という感じを出したい・・・というような時に使うものなのではないでしょうか。この歌の「たまご」はそれに該当するでしょうか。あるいは加藤さんの言われる「上の句[・・・]棒のように力強い感じ」がこの一首に効果をもたらすものとして期待されるでしょうか。ハテナ〜? と思ってしまうのは僕だけでしょうか。(←はい、あなただけです、と言われたら、この話、ここまで、なんですが・・・^^;)
少なくとも、句跨りを単に音数合わせのための方便のようにして使うのは、邪道だと思います。この一首、強引に5・7・5・・・に切って読めば、たしかに 半熟た/まごの黄身だけ/・・・ になりますが、「半熟たまご」という言葉のまとまりをあえて分断して読みたいという気持ちが、読む側には起きないように思います。こういう場合は、句跨りなどとは読まず、上の句破調の歌として読めば良いのではないか、と思ったのでした。
この番組、毎回見ていますが、こんなふうに選者のコメントに違和感を抱くのは珍しいことなので、以上、あえて記してみました。
ついでながら、今朝のゲストは水原紫苑さん。先月の歌人協会の講座の時、彼女はとってもハイでしたが(4月18日のこの欄の記事をご参照ください)、今朝もその延長上の雰囲気。テレビで、あんなにも楽しそうに喋っている水原さんを、初めて拝見しました。あるいは、こういう感じが彼女の“地”で、今までテレビに出演された時は、と〜ってもおすまししていたのかな?^^;
ついでのついでながら(などと言ってはナンですが)、今朝の入選作品中、印象に残った一首・・・
キューバ危機前夜の卓袱台子らに聴く食べたきものを父は真顔で 上門善和
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