今朝いちばん最初に飛び込んできたニュースはルー・リードの死去を伝えるものだった。
ルー・リード、アメリカのヴォーカリスト兼ギタリスト。
バナナのジャケットで知られるヴェルヴェット・アンダーグラウンドの中心人物だった。
私は決して彼の熱心な聴き手ではない。
代表作と言われるものは聴いていたにしても、すべてのアルバムを聴いたわけではない。
なので好きなミュージシャンなどと言ってはファンに申し訳ない。
私にとってルー・リードはやはりヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードなのだ。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(以下、ヴェルヴェッツ)は後のパンクやニューウェイヴに大きな影響を与えたニューヨークのバンド。
不健康な音楽のロックの中でも最も不健康な音楽だった。
アンディ・ウォーホルと意気投合した結果生まれたそのサウンドはロックというよりもアートに近かったのだろう。60年代末のロック黎明期とも言える時代に、すでに後のニューウェイヴのサウンドを予見していたのだから恐ろしい。
モーリン・タッカーが叩き出すプリミティヴなビートに、ヘタウマな演奏が乗るといった感じか。
彼らの音を経験したのは当然のことながら後追いだったのだが、時代を経てもその凄みを感じることはできた。ただ、さほど入れ込むことができなかったのは、好きな音楽のタイプとは異なっていたからだろう。
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ヴェルヴェッツがらみのどうでもいい話だが、あの森高千里の「森高」というのはヴェルヴェッツの女性ドラマーのモーリン・タッカーにちなんでいるという説があった。実は本名だったのだが、一定のリズムパターンを個性的に叩き続けるドラミング・スタイルが似ていることから、モーリン・タッカーの再来という評判が誤解を生んでしまったのだろう。
実はモーリン・タッカーは非常にオリジナリティのあるドラマーなんだけどね。それはまた別の機会に語ることもあろう。
さて、私にとってルー・リードというと、ミュージシャンというよりも詩人なのだ。
彼の詩は素晴らしい。頽廃的で虚無的で、それでいて饒舌。アメリカの現代詩の中に紛れ込ませても遜色ないと思う。誤解を恐れずに言えば、まったくもって文学的である。サウンドがなくても(いや、むしろサウンドがない方が)詩として成立する。
アメリカン・ロック界の三大詩人を挙げるとすれば、ボブ・ディランにジム・モリスンにルー・リードだろう。
数年前に彼はフランク・ヴェデキントの戯曲『パンドラの箱』と『地霊』から背徳のヒロインであるルルについての詩を書き下ろす。
そう、アルバン・ベルクがオペラを書いたが完成させることのできなかったあの『ルル』のヒロインである。
本能と欲望の赴くままに男性遍歴を繰り返し、殺人まで犯し、ついには娼婦にまで身をやつしてしまうという、絶対に出会いたくない女であるが、それゆえにどこか愛おしく感じてしまうルル。ルルのような女に殺されるのも、一緒に堕ちていくのもまた一興、などと思ってしまうのだから男というのはバカな生き物である。
ルー・リードはその詩にメタリカと音楽を付けた。
メタリカ、へヴィ・ロック(あるいはヘヴィ・メタル)界のビッグネームである。
アルバムが作られ物議を醸した。好意的な意見だけではなかったように記憶している。
確かに異種格闘技とも言えるこのアルバムは傑作とは言えないかもしれないが、十分に問題作であり、ロックの在り方に一石を投じたものと言えよう。とんがった連中がとんがったまま作ってしまったという印象で、作品としては少々荒削りすぎた。冗長な部分や緊張感に欠ける場面もあり、そこが少々残念と言えなくもない。
ただ、ここでのルー・リードの詩は戦慄するほどに美しい。
世紀末のドイツではなく、現代のニューヨークに舞台を変えているのだろうが、無機質な中の生々しさが噎せ返るような匂いとともに感じられる。敢えて言うなら、血のイメージだろうか。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1791758436&owner_id=3696995
年齢を重ね、ルー・リードの詩はますます冴えてきている。
そう感じてからまだそんなに経っていない。
ヴェルヴェッツ時代もソロになってからも、彼はいつでもアンダーグラウンドの住人だった。
いくつになってもとんがっていて、大衆に阿る音楽とは無縁のところで音楽や詩を作り続けてきた。
聞くところによると、この春に肝臓の移植手術を受けたのだという。
闘病生活なんて彼には似合わない気がする。
71歳、まだまだ早すぎる。
今夜は彼を偲んでヴェルヴェッツの『黒い天使の死の歌』や『日曜の朝』でも聴こうか。
冥福を祈る。
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