通称キャンドルナイトの娘と呼ばれているらしい。
クリスマスに合うかどうかはわからないが、季節は明らかに冬だろうと思う。
火の灯ったたくさんの蝋燭という華やかな画面ではあるが、少女が行おうとしているのは魔術なのである。
少女主義的水彩画家たま女史の人気作である。
うちに来てちょうど1年になる。
昨年の個展の初日に来てもらうことに決めたのだが、相当な人気だったらしい。早々に嫁入り先が決まってしまったことを残念がっていた人が多かったそうなのだ。
ちょっと特別な展示のされ方をしていたし、たまさんにとっても特に思い入れの深い作品だったのだろう。
嫁入り先がうちで良かったと思ってくれているようで、光栄なことである。
うちの壁に掛かっているのがあたりまえになってしまっているが、それでも見入ってしまうことが少なくない。
最初に来てもらった人魚にしてもすでに4年が経っているのに、やはりじっと眺めていることがある。
絵の力はすごい。
画面に描かれたものだけではなく、そこにはいろいろなものが含まれている。
作家の喜怒哀楽が込められているのだろうと思う。
絵を描いている時間、当然ながら作家はその前で過ごしていることになる。その時間の情念や執念や怨念が画面に込められるのだ。絵具や紙がそれらを吸う。
そして絵は得体の知れぬパワーを持ち独特のオーラを纏うのだ。
デジタルアートにはこれがない。
デジタルアートを否定はしないが、ゆえに好まない。
たまさんの作品は個性的ではあるけれど、可愛らしい少女を主役にエロスとタナトスを描くというのは何も彼女だけではない。
決定的に異なるのは過剰なまでに描き込まれた背景にある。まるで細密画のように多くのメタファーが描かれているのだ。見方によっては主役の少女を食ってしまうほどである。それが作品に奥行きを与えている。少女を主役として見ているうちに、描き込まれた小物や背景と同じようにその少女が何かの象徴であるように見えてくる。まるで幻惑されているような気分になるのだ。
彼女の作品は紛れもなく象徴画である。
なので、彼女の作品を説明するときに引き合いに出すとすれば、同時代の画家ではなく、19世紀から20世紀初頭にかけての象徴主義や表現主義の画家でなければならない。
さすがヴァニラ画廊の看板画家である。
昨年と今年の表参道でのアートフェア、ディレクターの田口女史が選んだ作家で、二年とも出展されていたのはたまさんと福山フキオ氏の二名のみである。(もっとも、ヴァニラを代表する作家の中にはオープンな場での展示を憚られる人も少なくないのも確かであるが)
なんにしても肩入れしたくなるような作家とはそうそう出会えないものである。
美術館で過去の巨匠の名画を楽しむのもいい。
しかし、まさに今この時代を生きている作家に注目するのも楽しい。アートの歴史が作られる瞬間を見られるかもしれないのだ。
ま、こういうのも縁なのだろうけど。
ちなみにこの写真は個展最終日にたまさんの勧めで撮らせてもらったものである。
ログインしてコメントを確認・投稿する