コンサートの翌日は眠い…。
どうしても寝るのが遅くなるからだが、だったら日記は翌日に書けばいいものを、やはり印象の強烈なうちに書いておきたい。
ジャズクラブなんかだと帰りがさらに遅くなる。しょっちゅう行っていた頃はよく体がもったものだと思う。
とはいえ、音楽道楽はやめられない。
あ、昨日書き忘れたので、ここに書いておく。
昨日のリーズ・ドゥ・ラ・サールの東京公演は、7月1日NHK-BSのクラシック倶楽部という番組で放映されるとのこと。
では本題…。
今日はマーラーの命日である。
毎年このネタで書いているわけだが、今年は没後100年という節目でもある。
つまり、マーラーの音楽は100年以上も前の音楽なのである。
指揮者としては多くの名声を得たマーラーだが、作曲家としては不遇だった。
「やがて私の時代が来る」という言葉を遺して世を去ったのだが、20世紀の後半から現在にかけて、作曲家マーラーは復権した。まさに「マーラーの時代」と言ってもいいほどの人気作曲家となった。
彼の予言どおりになったわけである。
偶然ではない。彼の音楽は聴かれるべくして聴かれるようになったのである。不安の時代が彼の音楽を求めたのだとも言えると思う。
私がマーラーを聴き始めた頃はまだ人気があるとは言えなかった。
シンフォニーを全曲録音していたのはバーンスタインとクーベリックとショルティの三人のみ。1番や5番といった曲はともかく、6番や7番などは大きなレコード店にでも行かなければ置いていなかった。そもそもレコード自体が少なかったのだ。
それでも、次代を担う指揮者たち(アバドやメータやレヴァインら)がこぞってマーラーの録音を始め、あのカラヤンまでもがマーラーを取り上げるといった頃だった。ブームとなる兆しはすでに現れていたとも言える。
今の人気を思うと隔世の感がある…。
マーラー・ブームのきっかけを作ったのが、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ヴェニスに死す』(1971年)に5番の第4楽章アダージェットが使われたことだと言われている。
ヴィスコンティの映画には一時期はまったことがあるのだが、この映画は好きになれなかった。この映画の主人公はマーラーを投影したものだと言われている。そこに違和感を覚えたのだ。
ご存じの通りこの映画には原作がある。
トーマス・マンの小説『ヴェニスに死す』がそうである。確かにトーマス・マンとマーラーには交流があった。
ヴェニスに旅に出た孤独な初老の作家アシェンバッハは、旅先で見かけた美少年タジオの虜になっていく。簡単に言ってしまうと、そういう話だ。
しかし、この話はトーマス・マン自身の30代の頃の経験が基になっている。アシェンバッハの風貌とグスタフというファースト・ネームだけを亡くなったマーラーから借りたに過ぎない。よって、原作にマーラーを思わせるものはほとんどない。
ところが、映画化にあたってヴィスコンティは設定を作家から作曲家に変えている。アダージェットをさも主役のように扱って鳴らしていることからわかるように、明らかにマーラーを念頭に置いた設定変更だと言えるだろう。
しかし、アシェンバッハにマーラーを思わせるものは多くない。
マーラーに関する資料を読んでも、もちろん曲を聴いていも、アシェンバッハにマーラーを見ることはできなかった。
確かにマーラーは美を追求した人だっただろう。しかし、美に耽り溺れる人ではなかったと思うのだ。マーラーは感性と理性の相克に悩む人だった。常に生と死の狭間に自分を置いておく人だったと思うのだ。マーラー作品に存在するアンビヴァレンツは、マーラーという人そのものだったような気がする。
そう考えると、アシェンバッハはあまりにもわかりやすすぎるのだ。
もしマーラーが美少年を見たとしたらどう思うだろうか。私はそこに迫り来る死を見たと思う。やがて青年になることによってもたらされる少年という無垢な存在の死を見たと思うのだ。
『ヴェニスに死す』の映像は美しい。アダージェットの音楽とよく合っている。しかし、アシェンバッハはアダージェットのような音楽を作りえなかっただろうと思う。
実はトーマス・マンの原作にも同じような感想を持っている。アシェンバッハという作家には余り魅力を感じない。
まあ、映画のタジオ役のビョルン・アンドレセンは確かに美少年だと思うよ。
しかし、ときめかんよなあ。
やはり、美少年より美少女の方がいいなあ。もっとも、美少女にのめり込むというのでは当たり前すぎて話にならんか…。
おっと、ずいぶん話がそれた…。
マーラーが亡くなって100年、いまやお茶の間にもマーラーの曲が流れる。
よりどころとなる価値観が崩壊した時代。自己の存在を確認することすら覚束ない時代。そんな時代がマーラーを求めたのだ。
だとしたら、マーラーはこのような世界になることを予見していたのだろうか。そうだったとしても自分の音楽が聴かれるようになったこの世界を見たら決して喜びはしないだろうと思う。
没後100年の今日はそんなことを考えながらマーラーを聴きたいと思う。
マーラー音楽の奥座敷、交響曲第6番イ短調『悲劇的』。
選んだのはジョン・バルビローリ&ニュー・フィルハーモニア管の重量級の名演(1967年)。
ところで、うちには『悲劇的』だけで何枚あるのだろうか…?
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