稲葉振一郎『経済と社会』(有斐閣)を読みました。
著者は、明治学院大学社会学部教授であり、ご専門は、たぶん、社会学なんだろうと思います。
本書冒頭で、「本書のテーマは、『経済』と呼ばれてる事柄について、系統立てた学問的知見をもとに、その何たるか、大げさにいえば『本質』をわかりやすく解説することである。」と記しています。「わかりやすく」の部分が少し気にかからないでもなく、出版社からしても本書はほぼほぼ学術書に近くて、決して一般向けや入門書ではないと私は考えているのですが、その部分をおくとしても、たしかに大げさだという気がします。
私は経済とは社会の中のある側面だと考えています。どの側面かというと、トートロジーなのですが、経済の側面です。では経済とは、資本蓄積とその資本と労働に支えられた生産と流通と消費だと考えています。ただ、それら資本蓄積などの活動を円滑にするための金融というのは忘れるべきではありません。
本書では、資本主義という用語で経済活動の一端を把握しようと試みています。私はそれはそれで正しいと考えますが、本書でも指摘しているように、資本主義とは社会主義と対比する用語といえます。
そしてココが本書と私の違いですが、社会主義とは計画経済ではありません。むしろ、何らかの計画に基づいた指令経済と考えるべきです。資本主義でも、何度か別の機会に私が繰り返したように、企業、特に大企業では計画は持っています。単年の年度計画も数年間の中期計画もあります。計画というよりも目標に近いものですが、そういった計画を持つことではなく、計画に基づいて政府が生産や流通を中央統制的に司令することがソ連流の社会主義の本質と考えるべきです。そういったソ連流の社会主義ではなく、分散化された市場における価格付けをシグナルとして生産や流通、さらに消費の意思決定が行われるのが資本主義です。意思決定の際の情報や決定要因が違いとなります。
ですから、現在の日本のように、政府の権力や情報操作が大きくなれば、資本主義的な分散型の意思決定ではなくなる可能性があり、統制経済に移行する可能性すら考えられます。ただ、そういった統制指令経済とソ連流の社会主義経済で大きな差があるのは誰が権力、統制を行うに際しての指令を出す権力を持っているかです。マルクスがブルジョワ権力に対してプロレタリアート独裁を対比させたのは、その意味では、本質をついた見方であった気がします。ただ、今では「プロレタリアート独裁」なんて、大きな意味はないと私は考えています。
本書でも指摘している通り、ケインズ主義的な福祉国家による幅広い国民に裨益する経済政策の方向が可能となったからです。ただ、1970年代の石油危機などに際してインフレに対するコントロールがケインズ政策では不十分であったことから、新自由主義的な勢力が巻き返しを図り、現在もまだ日米をはじめとする多くの国で新自由主義的な経済政策が取られていることは事実です。
ブックレビューというよりも少し違う方向に進んでしまいましたが、本書が解説しようと試みている経済についての私の考えはそういったものです。
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