志位和夫『Q&A いま『資本論』がおもしろい』(新日本出版社)を読みました。
著者は、奥付では日本共産党の中央委員会議長となっています。最近、委員長が交代したり、不破哲三さんが亡くなったりしていて、私はこの政党の人事はよく把握していません。
本書は民生同盟のメンバーを対象にしたセミナーを収録しています。テーマはもちろんマルクスの『資本論』なのですが、その第1部だけを対象としています。広く知られている通り、『資本論』は第3部までありますが、マルクス自身が編集したのは第1部だけであり、第2部と第3部はエンゲルスの編集です。ですので、「エンゲルスの編集にして正しければ」といった限定、例えば、『資本論』第3部は3大階級で終わる、といった言及がなされたりすることもあると思います。
私は学生のころに『資本論』を第3部まで読んだことは読んだのですが、マルクス主義経済学はまったくのシロートです。ですので、2点だけ着目したいと思います。まず、剰余価値の生産です。企業利潤の源泉、というか、企業利潤そのものです。その企業利潤との関係で、賃上げだけではなく労働時間の短縮もひとつの課題、との指摘は新鮮に感じました。ケインズの「わが孫たちの経済的可能性」で言及されている1日3時間労働や週15時間労働=Three-hour shifts or a fifteen-hour week に近い考え方だと感じるのは私だけではないと思います。
第2に、社会変革のための客観的条件と主体的努力です。私は長らく政府で公務員として働いていて、もしも、その昔のソ連や中国であった社会主義革命なんてものが日本で起これば、ギロチンにかけられる確率も平均的日本人よりも高い可能性がある、と覚悟していますが、逆に、それだけに、労働者が武力蜂起して革命が起こって、プロレタリアート独裁なんてことにはならない、武力革命なんて微塵の可能性もない、ときわめて楽観的に考えています。
しかし、『資本論』でいうところの生産力が拡大し、希少性がほぼすべての商品で低下し、あるいはゼロになれば、価格に応じて資源を配分する市場は無用の長物となり、「必要に応じて」という共産主義的な配分に移行する、あるいは別の表現で、革命がなくても、資源配分の場が市場でなくなる経済に移行する可能性はゼロではない、と考えています。革命が起こらないと、元公務員の私がギロチンにかけられることもないわけです。
その場合、生産手段が国有・公有に移行しているかどうかは、資源配分の観点からはそれほど重要ではない可能性もあります。その意味で、私にはムリでしょうが、物理学のような経済学の大統一理論がそのうちに出来る可能性も否定できない、と私は考えています。まあ、とっても先の話かもしれません。
最後に、同じ著者により同じ出版社から今年2026年1月に『自由な時間と『資本論』』と題する本が出版されています。私はこれも読みたいと希望しています。
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