昨晩ボブ・ディランを観てきた。
ご存じのとおり、ディランはフォークあるいはプロテスト・ソングの弾き語りというスタイルで出発し大きな支持を得た。やがてエレキ・ギターに持ち替え、激しいビートを導入し、いわゆるフォーク・ロックに移行した際に大きな批判にさらされてしまった。
そして今は古いポップスを取り上げ、積もった埃を取り払うかのようにして、新たな光を当てている。
思えばディランの音楽活動は挑戦の歴史で築かれたものであろう。自身の名曲でさえ変容させることを厭わない。いや、自分のやりたいように変化させる。
ひとつ所に留まらないその生き方はまさにロックであろう。
ところで、ここ数日ネットを騒がせていた出来事があった。
日本在住のイギリスの某音楽評論家がBABYMETALを酷評したのだ。酷評自体は問題ないが「まがい物」「世も末」という言葉を使ってしまったのがまずかったのだと思う。もともとこの人はメタルどころかハード・ロックやプログレも嫌っているので酷評自体は想定通りなのだ。ただ、批評というよりもいわゆる「ディスる」ような言い方になってしまったのは評論家としてどうだろうとは思う。
それよりも私が気になったのはそのニュースに対して付いたコメントだ。
BABYMETALにとって母国こそアウェーである。
そう思ってしまう。
BABYMETALを嫌うのは一向にかまわない。
万人に受け入れられるものなどないだろうし、あったとしてもそれはきっとつまらないものだろう。
メタラーとして受け入れられないと言うのなら、それもいい。
良さがわからないと言う人がいるのも理解する。
だからといってディスっていいということにはならない。
メタルサウンドに可愛らしい声あるいは伸びやかな少女声を乗せるというものはかつて「なかった」ことである。メタルにダンスを合わせるということもかつて「なかった」ことである。少女たちがフロントに立つメタルもおそらくかつて「なかった」ことであろう。
新しいものが批判にさらされてきたのはこの世の常。
そう簡単に受容されるものではない。
言い方を変えれば、受容しがたいものにこそ歴史を変える力がある、ということでもあろう。
ロックンロールにハイトーンシャウトを乗せることなどなかった。
重いリフでメタリックなサウンドを奏でるへヴィ・メタルというものなどなかった。
断末魔のようなデスヴォイスで歌うメタルなどなかった。
女性がクリアーな天使声で歌うメタルなどなかった。
今では当たり前になっていることだって初めから受容されていたわけではない。
BABYMETAL批判も後に振り返ると受容に至る歴史のひとこまということになるのだろう。
だからアンチやヘイターがいくら騒いでいても暖かい目で眺めていればいいのだ。
BABYMETALは安穏とした道を歩いてきたわけではない。
ヘタをすれば汚物の入ったペットボトルを投げ込まれるリスクすらある海外のフェスのステージに立ち続けてきた。
その都度さまざまな非難や中傷をはねのけて成功を収めてきたのだ。ある意味、力でねじ伏せてきた、とも言える。
生半可な覚悟でできることではあるまい。
BABYMETALがメタルかどうか、そんなことはどうでもいい。
しかしBABYMETALの在り方はまさしくロックなのだ。
昨晩レジェンドの衰えを知らぬロック魂を目の当たりにし、今の時代であればとんがってロックしていると言えるのはBABYMETALなのではないかと思った次第。
そう的外れなことではないと思うのだが、いかがだろうか。
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