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2024年04月22日00:16

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本棚622『因幡・伯耆のみち、檮原街道』司馬遼太郎(朝日文庫)

 「日本人は、ゴビ沙漠やシルク・ロードの西域の流沙、あるいはサハラ沙漠に、他の国のひとたちには理解しがたいような甘美さを感じてきた。···それやこれやを日本列島という湿潤の地でおもうとき、太虚に立つ虹のようなおもいをもってしまう。」

 遥かな地への憧憬。以前、鳥取砂丘を訪れた時に、紺碧の海原と砂の褐色との鮮烈なコントラストに圧倒されたことを思い出した。安部公房の『砂の女』の砂丘の雰囲気とは違って、鳥取砂丘は無機質な感じはなく、どこかあたたかみが感じられた。この日本離れした光景が人を惹き付けたのは明治に入ってからとあまり昔のことではなく、本格的に観光地として注目されたのも戦後以降という指摘は意外だった。

 また、高知の檮原街道には「脱藩の道」という副題がつけられていたので、『竜馬がゆく』の作者らしく、坂本竜馬が大きく取り上げられるかと思ったけれど、そうではなかった。山と谷が織り成す深山幽谷の壮大な自然を前にして、歴史上の英雄も、その他の人物も等価に扱われる。竜馬が檮原街道の関所を通って脱藩する際、檮原の郷士の家に泊めてもらい、酒を酌み交わしたという挿話では、幕末の動乱の中、命を落とした者たちが分け隔てなく描かれている。

「この夜、酒を飲んだ主客四人は、ことごとく非業に死ぬのである。場所はみなちがっていた。」

 歴史の中の無名の人物に光を当てるのも、作者の得意とするところだ。例えば、檮原村の庄屋職をつとめていた中平善之丞という者。穏やかな性格で、思慮深い人物であったが、藩の権力を笠に着て農民を搾取し暴利を上げる商家に対して津野山一揆が生じた際、命を捨てる覚悟で農民たちを指導した。善之丞のつぶさに実証を挙げた談判により商家の側は死罪となったが、法を破って一揆を集合させた咎で、善之丞も斬首となった。歴史の教科書に現れることのない、無名の人びとの良心を丹念に見つけ出すことは、歴史の大河の中で煌めく砂金を探すよう。二百数十年の時を経ても、檮原の人は今でも善之丞を慕っているという。
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