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2024年03月30日21:50

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3/27 中平卓馬 火 | 氾濫@東京国立近代美術館

https://www.momat.go.jp/exhibitions/556
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「日本の戦後写真における転換期となった1960 年代末から70 年代半ばにかけて、実作と理論の両面において大きな足跡を記した写真家である中平卓馬(1938−2015)。」

名前も、森山大道氏が撮ったポートレイトも知っているが、写真はよく知らない、著作も読んだことがない。時々行く東京都写真美術館でも個展を見たことがない。でも、写真をやっていて、中平卓馬を知らないとまずいだろ…なんて義務感から重い腰を上げた。

「その存在は森山大道や篠山紀信ら同時代の写真家を大いに刺激し、またホンマタカシら後続の世代にも多大な影響を与えてきました。1960 年代末『PROVOKE』誌などに発表した「アレ・ブレ・ボケ」の強烈なイメージや、1973 年の評論集『なぜ、植物図鑑か』での自己批判と方向転換の宣言、そして1977 年の昏倒・記憶喪失とそこからの再起など、中平のキャリアは劇的なエピソードによって彩られています。」

1960年代には総合月刊誌『現代の眼』の編集者だった中平が、写真家・東松照明との出会いを機に写真家に転身。以後、実作と理論を展開しながら精力的に活動を続ける。
雑誌や同人誌で、大量消費社会や既存観念に対する鋭い批判を、撮影と執筆の両輪で繰り広げる。高梨豊や森山大道が盟友だ。
時はサブカルチャー全盛の時代、パフォーマンス的な展示も行い、写真のあり方を問う。私もまだ幼かったものの、その時代の空気を知るものとしては、共感や懐かしさを覚える。

ところが、1973年に評論集『なぜ、植物図鑑か』を発表し、これまでのネガやプリントを焼却して自己批判、方向転換の宣言をする。
写真は、撮影者のイメージを投影してはだめだ、事物を事物そのままに〜つまり「植物図鑑」のように〜撮ることだというのである。
1974年には、東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」では、その方向性を模索する大作《氾濫》を発表。
この辺りも展覧会の一つのクライマックスなのだが、自分の言葉に置き換えてこの日記を書けるほど消化できていない。展示を追っていくのがやっと(汗)

そんな最中に、衝撃的なことが起きる。1977年急性アルコール中毒で倒れる。そして倒れる前数年分の記憶を喪失し、以降の記憶や言語にも障害が残ったのだった。
同世代の写真家・深瀬昌久が泥酔して階段から転落、重度の障害を負ったことを思い出す。彼は残念なことにその後カメラを手にすることはなかったというが、中平卓馬の場合は復活!多くの作品を残している。
展示は、晩年までの作品を披露するが、記憶の喪失でそれまでの思考や作風が断絶したのか、それとも病であっても通底する写真理論があったのか、、、、私にはよくわからなかった。

没後初の本格的な回顧展ということで、約400点の作品と資料(初期のネガやプリントは焼失しているので、掲載された夥しい数の雑誌でそれを補完している)で中平卓馬の仕事を丁寧に検証していく展覧会。
キャプションも丁寧で、展示も工夫されている。
写真撮影も一部を覗いてすべて可。
空いているわけではなかったが、静かに熱心に見る観客ばかりだったので全くストレスにならず。
私にはちゃんと消化して紹介する能力がないのでろくな日記は書けないが、ただ、写真とは何か、どうあるべきか、を生涯問いかけ続け、理論立てては実行、実験していくその気迫と姿勢に圧倒され、今でこそ当たり前のようになったことをこの人は、先頭きって作り上げてきた、戦後を代表する写真家の1人だったのだなあと改めて感じ入った。

「中平のキャリアは劇的なエピソードによって彩られています。しかしそれらは中平の存在感を際立たせる一方で、中平像を固定し、その仕事の詳細を見えにくくするものでもありました。 
本展では、あらためて中平の仕事をていねいにたどり、その展開を再検証するとともに、特に、1975 年頃から試みられ、1977 年に病で中断を余儀なくされることとなった模索の時期の仕事に焦点を当て、再起後の仕事の位置づけについてもあらためて検討します。 
2015 年に中平が死去して以降も、その仕事への関心は国内外で高まり続けてきました。本展は、初期から晩年まで約400 点の作品・資料から、今日もなお看過できない問いを投げかける、中平の写真をめぐる思考と実践の軌跡をたどる待望の展覧会です。 」


アルバムあります。
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000121147752&owner_id=2083345


第1章 来たるべき言葉のために
森山大道が撮った写真から始まる
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寺山修司のエッセイに、中平卓馬と森山大道の写真が起用された
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写真同人誌『Provoke』
当時既存の写真表現としてなかった「アレ、ブレ、ボケ」は、いまでは森山大道の代名詞になっているけれど、中平卓馬もその代表的な写真家だった。
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展覧会での展示も、これまで一般的だったパネル貼りの写真印画でなく、グラヴィア製版により印刷物を出品。「写真は本来、無名な目が世界からひきちぎった断片であるべきだ」と。かっこいい。
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第2章 風景・都市・サーキュレーション
《サーキュレーションー日付、場所、行為》
「写真によって個人の内面を世界に投影するのではなく、世界の側が個人に与える影響を示す」展覧期間中、その日に出会うもの全てを写し、その日のうちに現像して焼き付け、その日のうちに展示したという。
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1971年のオリジナルプリント
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凱旋門を包んだ有名なアーティスト・クリストの若かりし写真も!
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第3章 植物図鑑・氾濫

《もう一つの国(3):植物図鑑『朝日ジャーナル』》
「ここには植物図鑑を越える一切の〈深層の意味〉はない。」
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1974年東京国立近代美術館「15人の写真家」展で出品された《氾濫》
1974年の出品作と2018年のモダンプリントが同時展示。にくい演出。
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当時の資料も興味深い。
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調べてみたら
https://www.momat.go.jp/exhibitions/191
出品の写真家は
荒木経惟 北井一夫 沢渡朔 篠山紀信 高梨豊 田村彰英(シゲル) 内藤正敏 中平卓馬 新倉孝雄 橋本照嵩 深瀬昌久 森山大道 柳沢信 山田脩二 渡辺克巳
の15人。
森山大道は「にっぽん劇場」、深瀬昌久は「洋子」、篠山紀信は「晴れた日」を出品しているんだね。機会があれば、この時の図録をみてみたいな。


第4章 島々・街路
中平が倒れる前の写真

《奄美》
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《街路あるいはテロルの痕跡》
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第5章 写真原点
倒れたのちの写真

《Adieu a X》
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《日常》
出品作品全て100mmの望遠レンズで撮影されている。「中平にとって100mmが標準レンズとなっていること、これにより周囲の景色が切り落とされ、対象が単品として写る」と赤瀬川原平が展覧会パンフレットに寄稿している。
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《キリカエ》
2011年に大阪で開催された個展で、存命中最後の重要な個展となった。165点でスタートし、会期中の作品追加を経て、最終的に300点近く展示されたという。この方法は、「大量の写真で構成された《氾濫》や現地撮影により更新し続ける《サーキュレーション》との連鎖が認められ、クローズアップした事物を並置する方法は《なぜ、植物図鑑か》での思考の可視化といえる」とキャプションが締めくくっていた。
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中平卓馬お別れの会で配られたポートレート、森山大道撮影。
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4月7日まで

つづいて、コレクション展を観覧。

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