わたしは翌日、まるで中毒になってしまったかのように再びマーに会いに行き、彼女の話を聞いて帰ってきました。そしてそれからというもの、とてもじゃありませんが、わたしは自宅で安らいでいることができなくなってしまいました。機会を見つけては、いつでもマーに会いに行ったものです。連日連夜、その瞬間を待ち続けました。ときどきは日に二度もマーのもとへ行くほど、マーのためにじっとしていられなくなったのです。だんだんわたしたちは親密になっていきました。マーの仕事を手伝うこともあり、食事の給仕を手伝ったりしました。
郵政長官シュリー・プラン・ゴーパール・ムコパッディヤーヤ、法律大学の教授シュリー・バウル・チャンドラ・バサク、ダッカ大学の教授ナニ・バーブ、シュリー・ニシカンタ・ミトラ、ヴィクラムプールのサムシッディの大地主、その他の人たちが、マーに会いにしばしばやってきたと聞きました。プラン・ゴーパールが異動になったとき、彼の地位には、家族と共に毎日マーを訪れていたプラマターが就きました。これらの方々はみな家住者だったので長い間滞在することはできず、また全員がブラーフミンではなかったので、マーの料理の手伝いをすることができませんでした。
わたしが定期的にマーのもとへ通うようになると、彼女は大きな喜びを表現してこう仰いました。
「神があなたを遣わされたのです。この肉体は仕事をしっかりと行なうことができなくなりました、そういうわけで、神がわたしを支援するために、あなたをここに連れてきたのですよ。」
マーは最近まで一人でいたと聞いていましたが、ほとんど常にバーヴァに没入するようになったので、未亡人になったボーラーナートの兄妹マーターリー・ピシマーが料理その他の家事の手伝いをしに来ていました。しかしマーは、未亡人が魚を調理するのを好まれませんでした。だからマーは、日々の礼拝で魚を捧げなければならないときは、マーターリー・ピシマーがヴェジタリアン用の料理を行なっている間に、どうにかして自身でそれを調理なさったのでした。
マーにはもう一人の義理の妹(シュリー・カーリー・プラサンナ・クシャリの妻)がいたと聞きました。彼女は一九二五年、冬の休日にマーを訪ね、マーと彼女は同じ皿から食事を取りました。
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