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2024年04月06日05:07

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「さんてんいちいち」「イッテンイチ」

かつて〈言葉とはとても大切なもの だから さんてんいちいちなんて言わない〉(魚住めぐむ、「短歌人」2011年9月号)という一首にいたく共感して、2011年9月9日の記事でご紹介したことがあった。(*)
(*)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1772972974&owner_id=20556102

その後、上記の一首への応答のようにして、「舟」29号(2016年12月)掲載の拙詠にて〈もしそれが元日なりせばイッテンイチと言ふのだらうかあのイッテンイチと〉と詠んだのだったが(**)、あるいはこの歌の言霊が呼び寄せたのだろうか(オソロシ……)、2024年の元日に大きな災害が起きてしまった。
(**)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1957080461&owner_id=20556102

今のところ、あの日のことを言うのに「イッテンイチ」という言い方はなされず、「元日の…」という言い方が主に使われているようだ。が、先日の新聞で「1・1」という見出しを見つけてしまった(東京新聞 2024.3.28)。ただし報道や論説の記事ではなく、北村森さんの「モノめぐり」というコラムに「忘れない1・1 復興の道は続く」という見出しが付いていたのだった。本文中では「元日」と書かれているので、この「1・1」は東京新聞の編集サイドが付けたのかも知れない。いかにもメディアに携わる人々の間では、すでにあの日のことを「イッテンイチ」と言っていそうな気がする。上記の2011年9月9日の記事で「『さんてんいちいち』は、いかにもジャーナリストが、マスコミ業界のひとたちが言い出したのであろうと思われる言葉、いや、符号である。あの出来事を符号にしてはいけない」と僕は書いたのだった。

当事者にとっては大切な思い出の品なのに、何もかもひっくるめて「瓦礫」と言ってしまうのは、外側の第三者の視線だろう。「さんてんいちいち」も「イッテンイチ」もその視線による呼び方である。メディアは宿命のようにしてその視線を持ってしまうが、少なくともそれを受け取る側は、出来事を符号にしてしまう物言いに対する違和感を後々までも持ち続けたいものである。

記者らみな「瓦礫」と書くに「オモイデ」とルビ振りながら読む人もいる  児玉正広(朝日歌壇 2011.5.9)

[付記]ひとつ前の記事でご紹介した田村隆一「帰途」は、「短歌人」2023年5月号の「時評」で笹川諒さんが引いていました。お手許に「短歌人」のバックナンバーをお持ちの方は、あわせてご参照ください。


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