mixiユーザー(id:20556102)

2013年03月07日07:40

52 view

印象に残った歌の記録(5)

*以下すべてmixi掲載稿からの抜粋(一部補正あり)です。印象に残った歌の記録(4)は昨年11月19日の日記(※)をごらんください。
(※) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1881236246&owner_id=20556102

何故なのかどうしたらいいのかポスターが剥がれるように突然わかる    織田れだ

・・・「短歌人」2012年11月号より。初句・二句は、何についての戸惑いなのかを言っていないが、それを言わずじまいにして「ポスターが剥がれるように」というおもしろい比喩で決めた一首。「ポスター」は世の常識とか先入観とかいう類の喩であろう、と読んだ。これはなかなかいい喩だと思う。「先が見えない。一枚のポスターがじゃましている」などというフレーズも成り立つだろう。

息を吐くながくながく吐き出してそのさきに宇宙をひとつ産むのだ    猪 幸絵

・・・同前。一読、《産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか》(阿木津英)を想起した。「産む性」「母性」にこだわる女歌論等々の類に対するフェミニズムの立場からの批評の歌がこの阿木津の一首だとすれば、それをうまくひねって返歌としている。阿木津さん、あなたは「世界を産めよ」と詠まれましたが、ひとつのいのちをこの世界に産み出すことはひとつの宇宙を産むことなのですよ、と。人間一人一人が小さな宇宙だというのもよく言われることなので、新奇な発想というわけではないのだが、その発想をしかるべき場にうまく活かした歌だと思う。猪さんは四年前に続いて二度目の出産を迎えようとしていることが、前後の歌からわかる。

膝上の子は眠りたりバークリーの観念論をわれら語れば    中井守恵

・・・同前。「膝上」はふつうは「ひざうえ」だろうが、この歌の場合は「しつじょう」と読みたいと思った。音読みの硬さが「バークリーの観念論」とよく響き合うからだ。一連中に《くたびれてきみは眠りぬペンギンの雄のごとくに息子に尽くし》という歌があるが、この歌の「われら」は、われと「きみ」だろうか。ああ、若いなあ、いいなあ・・・、と思ってしまった。「バークリーの観念論」との対比で、「膝上の子は眠りたり」というさまが、いっそうあどけなくかわいらしく見えてくる。まことにたくみな詠み方をされている一首、と思った。「バークリー」という哲学者名の選択もいい。「ヘーゲル」などではありきたりになってしまう。

君がもうぢき死ぬといふのに朝夕の風はすずしく我を眠らす    山田政代

・・・同前。一連を通読すると、「君」はガンを患って入院しており、われはお見舞いに行くのである。詳しくは詠まれていないが、余命いくばくもない「君」、と少なくともわれには知らされているのだろう。それなら、われはもう嘆き悲しんで眠るに眠れないかというと、いや、眠るのである。だがそれはなんともうしろめたいことなのである。だから、朝夕の風はすずしくてわれを眠らせるのだよ、「眠る」んじゃないんだよ、「眠らされる」んだよ、というふうに呟いているのである。哀しみの弔いの後にも腹は減る、という歌は時々見かけるが、そのヴァリエーションと言えるかも知れない。しかし、そんなふうに、いつだって眠ったり食ったりするのが人間というものなんだよなあ、としばし立ち止まって考えさせられるのである。

大根を引きし穴より地の神の安堵せるごと湯気のたちけり    谷川 治

・・・読売歌壇2012.11.13。そうか、大根が生育しているということも地の神さまにとってはそれなりの負荷だったんだ。無事に作物が卒業してくれて、大地も安堵している。大根を引き抜いた側の心持ちよりも、地の神を先ず思いやったその心根がすてきだ。

練り状の時間があれば便利だな少し擦り込む切り傷治る    田中有芽子

・・・日経歌壇2012.12.9。奇抜な着想の歌。チューブ入りか何かで「時間」がドラッグストアの店頭で売られている。傷口に本剤を適宜擦り込んで下さい、その部位のみ時間の経過が早くなり、傷がたちまち回復します・・・、とぞ。消費者の欲望はエスカレートし、心の切り傷にも効くバージョンをぜひ出してくださいというリクエストが殺到するに違いない。

あれは何の行と云うらむどしゃぶりのなかに傘差し煙草吸う人    生沼義朗

・・・「短歌人」2012年12月号より。一読クスッとてしまう歌だ。いまや、雑踏の中で煙草を吸うというだけで相当の蛮勇が要る。しかるに、どしゃぶりのなかで傘を差しながらというのは、もうそれはほとんど「行」だろう、という見立てが、ひょっとしてそう大袈裟ではないのかも知れない、という気にさせられる。「云うらむ」の「らむ」だが、過日、こういう「らむ」の使い方について某ウェブ歌会でやりとりをしたことがあった。この歌の場合、「む」と同義の「らむ」として読めば了解することができる。「傘」に引かれて、ということだろうか、次の歌は《駅に人 されど群には秩序なくよくよく見れば行き倒れなり》。「駅に人…」という詠み起こし方は《雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ》(小池光)の「雪に傘、」を想起させる。さらに次の歌は、《フリースの手袋布地頑丈で縫製弱くそこからが駄目》。「そこからが駄目」は、《どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である》(奥村晃作)〜《青草をのぼりつめたる天道虫ゆくりなく割れここからが空》(春野りりん)といった歌を想起させるだろう。生沼さんの体内にはいろんな歌が堆積していて、その片鱗がおのずと現れるのではないかと思う。ひょっとして掲出八首すべてにその背後の先行歌があるのかも知れない。

ジュラ紀末の陸(くが)のはたてにはちまきを額にむすんで一群れ過る    藤井良幸

・・・同前。「ジュラ紀」は約2億年前〜1億4千万年前なのだそうだ。途方も無い過去を示す語だが、その頃に現在の大陸はかたちを成したという説が下敷きにされているのだろう。たしか、今の日本海は湖で、その後、この列島が大陸から分離した、というような話だった。「体育祭」というタイトルの一連の中の歌。前後からすると、どうやら作中のわれはこの「体育祭」に心踊りして参加しているのではなく、心的に距離を置いてそれを眺めている見物人らしい。その隔たり感を言うのに、ジュラ紀とはまた大きく出たものだ。たいてい、こういう場合は、銀河の中の一点とかいうように空間の広がりの中に「ここ」を置いてみたりするものだが、この歌では時間の広がりをも呼び込んで「今・ここ」が相対化されている。

二足もて人はも歩(あり)く秋瑟々ありきて人は命みじかし    酒井佑子

・・・同前。「瑟々(しつしつ)」は、「さびしく吹く風の音」(広辞苑)だそうだ。酒井さんの歌から、知らなかった言葉を学ぶことがよくあるのだが、「瑟々」という言葉も僕はこの一首で初めて知った。「秋瑟々」という三句は“投げ込み”という手法だろう(こういうのを“投げ込み”という、ということも、歌会で酒井さんから教わったのだった)。三句はなくても意味は繋がるのだが、そこに「ああ、秋風がさびしく吹くよ・・・」という感慨を投げ込む、のである。「二足もて・・・」から想起されるのは、《哺乳類の最醜のもの二足歩行して美しき奇蹄獣を曳きゆく》(酒井佑子『矩形の空』)である。2011年12月、「詩客」(※)の「日めくり詩歌」の僕の担当分の最終回にこの《哺乳類の・・・》を引いたのだった。今回の歌では、「命みじかし」という思いが加えられている。哺乳類の最醜のものではありながら、自らもその一員であれば、同類の者への慈しみもおのずと湧いてくる。季節も、ものさびしい秋である。「歩く」を「ありく」と古風に読むのもとてもいい感じだ。
(※)http://shiika.sakura.ne.jp/

ぬばたまの黒鍵叩く吾子の背にグレン・グールド宿る土曜日    冬野 凪

・・・「短歌人」2013年1月号より。一読笑っちゃった歌。いやあ、親バカもここまで来れば上等である。「黒鍵叩く」はおそらく「猫ふんじゃった」だろう。おや? よく聴けばわが子の「猫ふんじゃった」はいかにもグールドのタッチではないか、弾いている時のあの背中のまるめ方だってグールドそっくりだ・・・、と、いやはやなんともめでたい。結句の「土曜日」は週末の軽い解放感のような意味合いを添えていて、うまい収め方だと思う。

まだやつてゐるのと亡母に言はれたる短歌をやつてゐる恥づかしさ    中地俊夫

・・・同前。「私は謙遜でもなんでもなく自分には歌人としての才能が乏しいこと、歌にかかわりはじめたのは、ただ歌が好きという理由以外にないことなどを小中さんに告げたのだったが、小中さんはその時まさに烈火のごとく怒って私に二度とそんなことを口にするなと言った」と、かつて中地さんが書かれていたのを思い出した(「短歌人」2002年6月号)。今またあちらの世で小中英之さんは、二度とこんな歌を詠むなと怒っているだろうか? いや、「恥づかしさ」ならわかるよ、と言われるかも知れない。なんとナイーブな表白なのだろう、と思って読んだ一首。そうだ、短詩型文学に、いや、そもそも文学などというものにかかわるのは恥ずかしいことだ。芸能界に身を置くのは恥ずかしいことだ、というのと同様に。まあ、つまり、“カタギ”ではないわけですね。が、昨今はそんな「恥づかしさ」の境位を保持するのは、案外難しいことなのかも知れない。しかし、「短歌人」発行人が「短歌をやつてゐる恥づかしさ」と詠む。「短歌人」はまともな結社なんだなあ、とわかるひとにはわかるだろう。

鳴らしてる電話の先に死者がいることも知らずに鳴らし続ける    木下龍也

・・・日経歌壇2013.1.6。時間の自在、あるいはわれの客観視、というような隠し味があって魅力的な一首になった歌だ。もし、小説の一場面で、「彼は電話を鳴らしている。その先には死者がいることも知らずに鳴らし続けている」というくだりがあったら、ごくふつうの表現として僕らはそれを読むだろう。観察者としての「われわれ」はそれを知っている、当事者としての「彼」はそれを知らない、という〈観察者−当事者〉の構図が、おのずと了解されるからだ。歌というのは、その構図を介さず、どうしても直接性が前面に出るので、その分、かえって物語としての陰影を深めることができるのかも知れない。

青年が時代を憎む饒舌をわれは目つむり聞きながしをり    野上 卓

・・・読売歌壇2013.1.14。野上さんは「短歌人」のお仲間であり、あちこちの新聞歌壇などの常連投稿者でもあるが、ちょっとばかり彼は“大人すぎる”んだよなあ、と思う歌が時々ある。この歌もしかり。こういう“大人”こそ青年の最大の敵なのである。僕はどちらかと言うと、こういう“大人”にはうまくなりきれない、と感じることが多い。しかし、ぎゃくの見方もできる。こんなふうに言うからには、野上さんもかつて時代を憎む饒舌を吐いた青年だったに違いない。今、われはそれを聞きながすのだよ、とあえて言う、というところに、実は“大人”(この場合は「たいじん」と読むべきだろうか)にはなりきれていない自らのありようが、おのずと表白されているのかも知れない。

《番外篇》

原発を再稼働してくださいね熱中症で死にたくないし

・・・日経歌壇2012.12.23、岡井隆選の「2012年の秀作」十七首中の一首。作者名は省略する。このところ岡井はレギュラーの日経の選歌欄でもこの手の原発擁護の歌をたびたび採っていて、これはいささか〈主題主義〉の採り方というものではないだろうかと思っていたら、そのベクトルは年間秀作の欄にまで及んだようで、びっくりしてしまった。かつて朝日歌壇の選者だった近藤芳美は、反戦平和の歌なら何でも採りますと言わんばかりの採り方をしていたが、今、岡井隆は原発擁護の歌なら何でも採ります、年間秀作にだって採ります、ということだろうか。唖然呆然、である。晩節を汚すという言葉が浮かぶ。岡井は早目に日経の選者を次のひとに交代した方がいい。

[付記]2首目の猪幸絵さんの歌は、「印象に残った歌の記録(4)」とダブッてしまいましたが、すでにこの「印象に残った歌の記録(5)」の縦書きプリント版とメール添付用ワード稿は、郵送・送信済みですので、このままにいたします。

【最近の日記】
大森浄子歌集『千年をふたつ』
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1894848620&owner_id=20556102
「襟かき合わす」 〜3月横浜歌会〜
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1894711655&owner_id=20556102
「『不気味な歌』考」についてのコメントとリプライ
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1894532546&owner_id=20556102
「あるきだす言葉たち」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1894346904&owner_id=20556102
5 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2013年03月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

最近の日記