12月12日、友人夫妻と横浜で夜の会食。高松にいた6年間でもっとも美味しいと感じた「料理店」の出店が横浜にあって、そこでまず落ち合い、2次会の「パンケーキ」カフェで3時間近く歓談した。情報収集とロケハンを熱心にした割に、パンケーキの実力は今一歩及ばず。しかし、カフェの雰囲気が良く、客の入りもちょうどいい感じだったので、不満はない。
西宮で生まれ育ち、高松、京都、横浜、大阪、東京(五反田と田町)、鎌倉と移り住んで、いずこも自分には合っていた。いや、自らがその街に合わせたのかもしれないが、それぞれの場所が結構個性的なのにもかかわらず、住んで一週間も経つと昔からそこにいたような気になって馴染んでいた。
横浜は大学入試の前日に初めて訪れたわけだが、小指の爪の先ほども緊張はなかった。当時の感性はそんなにすれっからしではなかったはずだが、桜木町のユースホテステルに投宿した夜から「なになに、これが横浜?」と思い、横浜駅も大学のキャンパスもなんとなく田舎っぽいぞ、と心が安らいだ。
とにかく横浜は何処に行ってもリラックスできる。パンケーキのカフェで、ちらっと50年前の自分を思い浮かべたのだった。
会話の途中で、横山やすしさんと久世光彦さんを取材した時のエピソードを話したものだから、うちに帰ったあと、そろそろ仕事関係で持ち帰ったまま段ボールに詰めっぱなしの物を整理する時期に来た、と考えた。やっさん関係では、インタビュー時に撮った写真がまだあるからもしれない。久世さんからはハガキと手紙各1通いただいたことがあって、それを処分したかどうかは覚えていない。こういう「思い出の品」はいっぱいあるのだが、ライフログとしての価値でしかない。今年はもう手を付けるつもりがないけれど、来年、断捨離の方針をはっきりさせ、処分すべきは処分したい。
好きな作家のひとりに坂口安吾がいる。
「私は海をだきしめていたい」
短編の題名だ。20年か30年か前に読んだっきりで、内容はすっかり忘れていた。安吾の有名な短編「白痴」とか「戦争と一人の女」に陸続する堕落した作家とバカで淫蕩な女の自堕落な生活を描いた作品のひとつで、小説を読まない人がこれらの短編を読んだところで、不愉快になるか安吾を軽蔑するかのどちらかだろう、と思う。
ワケあって、先週、安吾の作品を夜ごと2編くらいずつ読み直した。
私は海をだきしめていたい。なんて素敵なタイトルなのだろう。まるで糸井重里が作ったキャッチコピーみたいだけれど(苦笑)、再読をしようとした際にまず読んだのがこれだった。
書き出しが奮っている。
「私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ」
締めの一文は書き出しと呼応した硬度があった。
そっか、私はタイトルと中味の両方で合わせ技イッポン、として高く評価していたのだろう。
毎日、きっかり1時間、安吾を読んでいる間、それこそ今尚神の意志に少しは従おうとするうぶな自分から解放されて、とても気持ちよかった。
いまの世の中は、”正しいことをする”一択の潮流が年々歳々ひどくなり、生きづらくて仕方ないのだが、それは自身が世の中に汚染されているから気が重いことを自覚した。
小説を読むというのは畢竟、自分を読むことでもある。
ログインしてコメントを確認・投稿する