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2019年01月10日10:31

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松根東洋城のこと @夏目漱石山房記念館

この人のことは、全く知らず。坪内稔典さんの講演会があり、参加した。

本名は、トヨジロウで、それをもじってトヨジョウ東洋城としたのだそうだ。1878〜1964だから、明治10年に生まれて東京五輪まで長生きだった。

漱石山房での講演だから、漱石とカンケーがある。この人は、漱石のたった1人の俳句の弟子。母が四国・宇和島藩の伊達宗城の三女だから、つまり伊達宗城の孫ということになる。また、弟が「電力界のフィクサー」とも呼ばれた実業家だった。大変なイイトコのオボッチャンだった。

松山で漱石が英語を教えていたときの生徒で、生涯、漱石を師とあおぐ。43年の「修善寺の大患」も、この人が誘ったものだった。また、大変なイケメンで、あの白蓮が恋の歌を送り、その事が新聞に出たりした。

仕事も宮内庁で、大正天皇に仕えたというからタダモノではない。「俳句をやってるのか〜」と聞かれ「渋柿のごときものにては候らへど」と俳句で答えた。この句、「て」が入って585にして、へりくだったニュアンスを出したそうだが、なくもてもヨカッタ。

そこら辺は、まあどうでもいい話で、核心は、虚子との反目。きっかけは東洋城がやっていた朝日新聞の俳句欄の選者を、虚子が勝手に外してしまったことにある。

その後も、虚子と俳句論で対立する事になった軸は以下のような事。
1)子規は、明治になって俳句を紹介するときに、蕪村を模範とした。
 (相対的に、芭蕉を低く評価)
2)東洋城は、芭蕉を高く評価した。


具体的には、「静かさや〜」「無残やな〜」「古池や〜」などの後のキレを「穴」と呼び、この「穴」に俳句の妙味があると紹介して、俳句を広めていった。

芭蕉を高く評価したことも含め、現代では、この東洋城的な考えがあたりまえ。名前のイカツサと裏腹なんだな〜と感心した次第だ。

この後、船団の仲間とセンセイも交えて飲みに行き、夏の会はコスプレはどうだ〜という話でもりあがり、さらにセンセイを交えて4人で、神保町のらんちょんで飲みすぎて、今朝は酒が残って、新春の太極拳教室は休み。
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