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2016年11月01日08:14

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「『V NAROD!』の逆説」への補注6点

拙稿「『V NAROD!』の逆説」(「短歌人」2016.11、前回のこの日記に転載)に関して、スペースがあればもう少し詳しくふれたかったことなど6点、以下、補注として記しておきたい。

(1)拙稿冒頭の引用ではふれなかったが、「時代閉塞の現状」のメインの論点は自然主義批判であった。「一切の近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする笑うべき『羅馬(ローマ)帝国』的妄想」「この無定見は、実は、今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである」「自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷(や)めて全精神を明日の考察―我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである」と啄木は書いている。もし啄木が1980年代頃に生きていたとしたら、「ポストモダン」とさえ唱えれば近代を脱することができるという無定見、などと書いたかも知れない。

(2)「時代閉塞の現状」は東京朝日新聞に掲載すべく書かれたものだ、と書いたが、その根拠はこの啄木の文章が「数日前本欄(東京朝日新聞の文芸欄)に出た『自己主張の思想としての自然主義』と題する魚住氏の論文は…」という文から書き起こされていることである。この文からして、啄木は東京朝日の文芸欄に掲載されるものとして「時代閉塞の現状」を書いたことがわかる。なぜ掲載されなかったのかについては詳らかにしないが(啄木の日記でも触れられていないという)、推測するに東京朝日のデスクが、あまりに“過激”な内容であると判断して、自主規制したのではないだろうか。このあたり、2016年現在のメディアの状況をも思わせる話である。

(3)「時代閉塞の現状」「A LETTER FROM PRISON」を書いた頃の啄木が、無政府主義ないし社会主義へ傾倒していたことは、次のような彼の書簡からもうかがわれる。「そうして僕は必ず現在の社会組織経済組織を破壊しなければならぬと信じている、これ僕の空論ではなくて、過去数年間の実生活から得た結論である、僕は他日僕の所信の上に立って多少の活動をしたいと思う、僕は長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇しない、無論社会主義は最後の理想ではない、人類の社会的理想の結局は無政府主義の外にない」(1911.1.9 瀬川深宛書簡)その「僕は他日…」の構想を、啄木は、当時、土岐哀果と出す予定だった新たな雑誌(については今年の8月、姫路にて開催された短歌人夏季全国集会での松村正直さんの講演で詳しく紹介されたのだった)に託していたのではないかと思われる。「すでに今の時代が今のような時代で、僕自身は欠点だらけな、そのくせ常に何か実際的理想を求めずにはいられぬ男であるとすれば、僕の進むべき路が、君子の生活でない事も、純文学の領域でないこともほぼ明白だろうと存じます」「かくて今度の雑誌が企てられたのです。[…]我々は発売を禁ぜられない程度において、また文学という名に背かぬ程度において、極めて緩慢な方法をもって、現時の青年の境遇と国民生活の内部的活動とに関する意識を明かにする事を、読者に要求しようと思ってます。そうしてもし出来得ることならば、我々のこの雑誌を、一年なり二年なりの後には、文壇に表われたる社会運動の曙光というような意味に見てもらうようにしたいと思ってます」(1911.1.22 平出修宛書簡。「文壇に表われたる社会運動」に付点。)この新雑誌は「樹木と果実」というタイトルで(啄木の「木」と哀果の「果」を織り込んだのだそうだ)、創刊号の原稿を集めるところまで準備が進んだところ、印刷所の作業の不備などによって、結局創刊されないままとなってしまったが、当時の啄木の書簡を読んでいると、刊行されたばかりの『一握の砂』よりもこの新雑誌の構想の方へ彼の気持ちが向けられていたことがよくわかる。

(4)死の少し前頃の啄木が「幸徳一派」から「社会主義的帝国主義」へ転じた、と金田一京助に語った件については、ドナルド・キーン『石川啄木』からの重引で書いてしまった。ドナルド・キーンによれば、杖にもたれながら金田一の家を訪ねた啄木は、「今の僕の懐くこんな思想は何と呼ぶべきものだか自分にもまだ解らない。こんな正反対な語を連ねたら笑うかも知れないが、(自分でも決して適当だとは思わないが、自分のこの心持を表現するのに、仮りに云うのだということを何遍も断りながら、国言葉で、「お笑わえんすなや」と断って)――社会主義的帝国主義ですなあ」と言ったのだという。(『石川啄木』299頁−300頁、出典は『金田一京助全集』第13巻)

(5)「弓町より―食うべき詩」からは、短歌という詩形を虐使する云々という、よく引かれるくだりを引いたが、この啄木の文章においては、詩、ないし詩人はかくあるべしというような言挙げも記されている。ただし、それは短歌でも俳句でもないものとしての「詩」について言われているように読めるので、拙稿では引かず、「一利己主義者と友人との対話」で記されていた短歌についての思いの方を後段で引いた。「弓町より…」で記されていた言挙げは次のようなものであった。「詩人たる資格は三つある。詩人はまず第一に『人』でなければならぬ。第二に『人』でなければならぬ。第三に『人』でなければならぬ。そうして実に普通人の有(も)っているすべての物を有っているところの人でなければならぬ」「飢えたる犬の食を求むるごとくにただただ詩を求め探している詩人は極力排すべきである。意志薄弱なる空想家、自己及び自己の生活を厳粛なる理性の判断から回避している卑怯者、劣敗者の心を筆にしてわずかに慰めている臆病者、暇ある時に玩具を弄ぶような心をもって詩を書きかつ読むいわゆる愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、ないしはそれらの模倣者等、すべて詩のために詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。」こう宣しながら、短歌については「歌は私の悲しい玩具である」(「歌のいろいろ」=東京朝日新聞1910.12)と書き、死後刊行された第二歌集のタイトルとして土岐哀果がその「悲しい玩具」という語を選んだというのも、皮肉なことであったと思われてならない。

(6)拙稿の最後の段落で触れた小池光さんの仙台のタクシーの運転手の話は次の通り。《仙台駅前からタクシーに乗って仙台文学館に行ったんだけど、運転士が私より年下の中年…四十代か五十代の人で、「文学館に行ってくれ」と言ったら、「何の用事で行くんですか」と聞くのよね。つい正直に「短歌の集まりがあるから行くんだ」と言ったら、「短歌…」と言ったきり黙ってるんだよ。信号二つぐらい過ぎて、だしぬけに、「短歌ってのは、じっと手を見るやつですか」と。それで私、感激して「まさにその通りだ、短歌ってのはじっと手を見るやつだ」と言ったんだ。[…]短歌とは何か、と問うたときに「じっと手を見ることだ」というのはけだし名言です。そういうときに出てくるフレーズは、斎藤茂吉でも若山牧水でもなくて、石川啄木なんだよね。それだけのポピュラリティーというか、愛唱性。いったん聞いたら、心に刻まれて離れない言葉の力。そういう力を啄木の短歌はもっている。そういう歌の原型、近代短歌の原型をつくって見せたのは啄木じゃないかと思う》(小池光インタビュー「短歌とは『ぢつと手を見る』こと」=「現代短歌」2016.3[特集・石川啄木生誕130年])


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