「犬のひとり歩きはいけません」と大看板ひとり歩きの犬ぞ恋ほしき
・・・・酒井佑子『矩形の空』(砂子屋書房、2006年)
僕もかつて同様の看板を見かけて思わず笑ってしまい、いったいこれは誰に訴えているものなのかというようなことを歌にしたことがあったが、酒井佑子さんの存在感覚はそうしたありきたりなユーモアを超えて、「ひとり歩きの犬ぞ恋ほしき」という感想に至る。この感覚がこの歌集を貫く基調底音をなしているように思った。
「猛犬に」とありて「注意」の文字消えたり猛犬はなほ生きてありや
普通なら「注意」の文字が消えたという人界に関する話題へ行きそうなところ、酒井さんの思いは「猛犬」の方へと向かう。
烏(からす)を詠んだ歌も数多く収録されている(数えてみたら16首あった)。昨今の都市生活者の常識的な感覚で言えば、害鳥、とまでは言わぬとしてもどちらかと言えば人界を脅かす存在のようにみなされやすい鳥だが、酒井さんはごくごく当り前のことのように親しい“隣人”として接している。猫の餌を烏にもわかち、また、できることなら身近な烏に名前なども付けたいような思いが歌われている作品もあった。
哺乳類の最醜のもの二足歩行して美しき奇蹄獣を曳きゆく
われは毛物よたのしみ生きて長かりけり一毛だに無きこの身をわらふ
世にもつとも醜きものよ うしろより呼ばる息止めて卵剥きをれば
馬に馬の分別あるを見てをればかろがろとわれを過ぎて行きけり
酒井さんの「人間」に対するまなざしを、こうした歌から了解することができるだろう。ふりかえって、かつて僕は「人間ってなんて偉い動物なんだろう」という考えから、「人間ってなんてどうしようもない動物なんだろう」という考えに至るまでに、ずいぶん時間がかかってしまったなあ、などということもあわせて思い返したのだった。
あたたかき海に生まれて台風は楽しからずやよろこびの渦
台風という気象上の現象にさえ何らかの生命力をみとめ、その力に寄り添おうというような感覚が歌われている。言われてみればこうした感覚はたしかにわが内にもあると思いつつ、しかし「よろこびの渦」とは言ったことがなかったなあ、と思う。海こそは命のみなもとと言うなら、なぜあれを「よろこびの渦」と言わないのか、と問いかけられているような一首だ。しかし台風は人界に害をもたらすではないか、というようなことを言ってもこの歌とはすれ違うだろう。
姫御前のやうに起居して身のうちの痛みを聴きてをればおもしろ
エコー画面に叢雲のごとき象見えあるあるある医師とわれと喜ぶ
睫毛失せてボタン穴状になれる眼を朝朝ひらき楽しきごとし
美しき青むらさきの痣出づる血小板減少の朝をたのしむ
病いの兆しからその完癒に至るまでが歌われているくだりの作品だ。「かくもあられけるよ」と思いつつ、しかし、読み進むのがいささか辛くなるようなくだりだった。こんな時は誰だっておもしろかったり喜んだり楽しかったりするはずはないところ、こんなふうに詠まれる酒井さんはなんと強い方なのだろうか。いや、とても辛い思いの日々をこんなふうに詠むことができたからこそ、自らの歌から力を得ることができたのかも知れない。
醜さに北限あらば未だわれ到らざるべし欅日に濃し
甘いやさしいペシミズムの貌アイランドビルの肩から日が上る時
それでも、こんなふうに詠まれた時にはとってもとっても辛かったに違いない。
水のやうな青くらがりを這ひ出でて見ざる間に猫いたく痩せたり
「猫に逢ひに」とて病院から一時帰宅された時の一首。この歌集をこの歌のあたりまで読んできた読者としては、何かもうこの「猫」さまは旧知の仲のように思っているので、とてもせつない一首だ。しかしまた・・・
ペリカンのももいろののどすらすらと目の前に来てお話がと言ふ
泡立ててからだ擦りつつほとほとに飽けりからだは鍋より大き
こんな歌に遭うと思わず笑ってしまい、酒井さんの上質のユーモアを楽しませていただいた。
「膠着語」「植物相(フローラ)」「街衢」「有平糖」「ひきあけ」「溶明」「花序」「木五倍子」「燠」「蜂窩織炎」・・・・この歌集にて初めてお目にかかった言葉の一部だ。こうした語彙の豊かさもまた、決して奇を衒う類のものではなく、間違いなく酒井さんの作品世界の豊かさを創り出している。
そしてまた、酒井さんの歌は、「五・七・五・七・七」を母体としながらも相当に自在に詠まれている、という印象が強い。言葉と言葉のうねり、あるいは撓り、というようなことを感じる作品が多い。こうした調べはもとより一朝一夕に成るものではないのだろうと思い、僕などは麓から仰ぎ見るような気持ちになる。
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