私の持っている唯一の詩集「釋超空・会津八一」(新潮社・日本詩人全集16、昭和43年初版)に、山本健一による「釋超空・人の作品」と題された短い解説が掲載されてい.る。この解説が実に良く、私は繰り返しこれを読んでいる。釋超空という人を理解するには恐ら
『をとめ一人 まびろき土間に立つならし。くらき その声 宿せむと言ふ』***おそらく、作者は民俗学の研究の一人旅を終えて、日本のどこか奥深い土地で、疲れた体を休める一泊の宿を探してしたのだろう。もう、あたりは夕闇に包まれていて、まわりの山々は
『夕空の さだまるものか。 ひたぶるに 霄(は)れゆく峰に、むかひ 居にけり 』***座敷の障子を開け、正座して、武士が雨上がり夕空をじっと見ている。傍らに太刀を置き、正座の姿は微動だにしない。その凛とした姿。なにかを覚悟しての夕空の凝視
そもそも、私が知っている歌人は釋超空だけ。それも、私がこの人を知ったのは、大学受験雑誌「蛍雪時代」に、この人の詩がたまたま掲載されており偶然にそれを眼にしたからだった。それは私が大学受験に失敗し一年間浪人していたときだった。その年は、あのキ
私はうたは全くの門外漢でして、そもそも私の在職中の仕事は電子回路の設計をしていた。従って、いわゆる「うた」とは全く無縁の世界に住んでいた。ですから、これから日記する(と言っても毎日とは限りないが)釋超空のうたの解釈は全くの素人の勝手なもので誤
数学のなにものかに神秘を感ずるのは大抵、数学的才能の無い人だそうである。そうならば私は全く数学的才能は完璧に零である。いまさら、零であろうがなかろうが、どうでもよいのだが。e^(πi)=-1 という公式 (オイラーの公式) は見れば見るほどスゴイ。美の
以下の今から30年程前の話である。***私がNEC主催のPC-VANに盛んに書き込みをしていた頃、 『1杯のかけそば』 という作文が、どういうわけか大いに話題となった。後に、これがある作家の小説だと知り、私は少々唖然とした。確か、この小説なるものがPC-VANに
祖母が亡くなったのは、私が大学を卒業し、或る電気製造会社に勤務していた時だが、はっきり覚えていない。昭和44年頃だったと思う。***私は高校を卒業すると、一浪して、大学に入学した。だから、(その2) に書いたように、私が高校生の頃までは、我が家には
私の父方の祖母は、熱烈なる天理教徒だった。その「いきさつ」は、先の日記の、(その1) に書いた。***この祖母について、私が今だに覚えていることがある。私自身は犬や猫は好きだったが、祖母は特に動物好きというわけではなかった。ただ人並みに草花には興
私の父方の祖母は、熱烈なる天理教徒だった。***この祖母の夫は下駄作り職人だった。この祖母夫婦に生まれた初めての子供が、私の先の日記に書いた、おしんさんだった。 私が想像するに、初めての子だから 「新(しん)」 と名付けたのだろう。しかし事実は私
昔、「おしん」というテレビ・ドラマがあった。私の父の、一番、上の姉の名前も 「しん」 であった。但し、私は此の人に逢ったことはない。私が生まれる、遥か、前に亡くなったからである。その年は明治何年だったかは後記するように、或る機会で知ることにな
上の写真は、ありし日のトッチャンの写真である。(アナログ写真をデジカメで撮りなおしたので少しぼやけている)***私がトッチャンと初めて出会ったのは、もう13年前になる。私が、いつもの犬 ( この犬も今や亡くなっていないが ) との散歩道・・・そこは、あまり人気の無い曲
今や、円谷幸吉を知らない若者は多いかも知れない。しかし記憶している人も多いだろう。彼のよく知られた遺書がWikiに掲載されているから引用してみよう。確かに玄人の詩人には書けない真実があって、私などは胸うたれるものがある。遺書の全文(原文ママ)--
現在も此の雑誌は健在のようだ。私には懐かしい雑誌の一つである。***私が大学の理工学部に在籍していた頃、『真空管回路』という講義があった。昭和42年頃である。トランジタ回路についての講義もあるにはあったが、その内容は主としてトランジスタの原理が
以下は私が或る電子機器製造会社の設計部門に勤めていた頃の話である。***電子・電気機器の部品の一つにコンデンサがある。私は其のコンデンサを煮たことがある。そのコンデンサはセラミック・コンデンサと言って電子機器には良く使われる部品であった。***或
実は、私は、子供の頃、掲題の映画を、一日に2回みている。昔風に言えば木戸銭を二度も払って、同じ映画を映画館で同日に、二度もみたのだ。 なぜ、そんなに、この映画を気に入ったのか? 今や、全く忘れてしまっている。大川橋蔵の映画だとは記憶していた
以下の話は、私が盛んにWOWOWでの映画を観ていた頃だから、今から20年程前になる。あるとき、大変、印象に残る映画を観た。そういうとき、私は、大概、その映画について覚えているものだか、どういうわけか其の映画の題名や監督の名を忘れてしまっていた。た
以前、掲題の映画がBS放送されたので録画した。昨年だったか其れを観た。此の映画が公開当時、私は此れをリアルタイムで観ている。観た後、私は何とも嫌な感じが残り、その感じが何年も我が心を蝕(むしば)んでいるようで閉口したものだった。竹光での強引な自
以下の森鴎外の作品(『沙羅の木』)の、簡潔にして格調の高さは『空車』同様に鴎外ならではのものであって、私が好きな鴎外の作品の一つである。***褐色(かちいろ)の根府川石に白き花はたと落ちたり、ありとしも青葉がくれに見えざりしさらの木の花***私の家の
今から十年程前、私の家内がブラックベリーの苗木を、我が家の庭に冗談半分に植えた。そしたら、土質にあったのだろうか、見事に成長しだした。ご存知の方も多いだろうが、この蔓性の植物は五月頃、白い花が咲き、丁度、今時分の盛夏になりだす頃、黒い、ツブ
レコード盤は勿論のこと、今やCDは過去の遺物になりつつあるようだ。私はレコード盤は数年前、全て破棄した。再生装置が壊れたからだ。今でもレコード盤を好むマニアがいるようだが、私は音楽は、CD再生装置でしか聴かない。PCを含め、他の再生機器では、音楽
いままで書いてきた人たちは、私の人生の若き頃の、忘れ得ぬ人々だった。その忘れ得ぬ人々には、ここには書かなかった人もいる。とりわけ、若き頃の現在の私の家内にも、当然、忘れ得ぬことが、多々、あった。『「心の灯の会」のこと。(その6)』 に書いた、以
今回も或る女性の話である。『心の灯の会』には常連が5,6名いたが、定例の会を開くたびに新人がきた。たいていは、一回出席して二度と来ない人が多かった。或る定例の会のとき、一人の若い女性が現れた。仮に Dさんと呼ぶ。『心の灯の会』は定例の会が終わる
以下の話は私が大学・学部へ通っていたときの話である。豊島区にあった私の下宿から大学へ行くときは、下宿の近くのバス停から池袋駅行きのバスに乗っていた。その件については、以下の日記に書いた。私は大学・学部の 4年間は下宿を変えなかったから、そのバ
以下の話は私が大学・学部を卒業し、井之頭公園の近くの、「はな」さんの自宅に下宿していた頃の話である。「はな」さんについては日記 『井之頭公園の思い出 (その4)』 に書いた。その頃も私は『心の灯の会』には出席していた。私が「はな」さん宅に下宿して
私の通学経路は、下宿→池袋駅行きのバス停→池袋駅→高田馬場駅→大学、だった。下宿→池袋駅行きのバス停までの距離は徒歩で数分だった。***そのバス停の近くに肉屋があった。私は其の肉屋で、牛肉の、一番安いバラ肉を、数日毎に買っていた。常に100gだっ
私が『心の灯の会』に入会した時期は、確か、大学三年生の終わり頃だったと思う。私の大学・学部時代 (昭和38年春〜昭和42年春)は、都内・豊島区に在る、木造 2 階だての頗る建たつけの悪いアパートだった。そのアパートが在る敷地は大変広く、木々が茂ってい
この『会』の常連の一人に、新潟からだったか上京してきた法政大学の学生がいた。確か、大学一年生だったと思う。名前は残念ながら失念してしまったが、仮に A 君と呼ぼう。A 君は片脚に障害があったが、松葉杖は使っていなかった。ただ、片脚を少し引きずる
以下の話も、真冬の、或る寒い日のことであった。『心の灯の会』の定例日に、指定されていた都内にある無料の小さな集会所に私は出かけた。そしたら、H 君が一人、先に来ていた。後日、H 君が私に語ったことだが、仮に私の名前を B とすると、彼、曰くーーー
『心の灯の会』なる超ミニ・コムュニィテイについては先の私の日記に書いた。***この『会』では、自作、他作の詩を各自、披露したのだが、当然、私も自作の詩を、いくつか披露した。今でも、その断片を私は覚えている。それを此処で書いてもよいが、いくら私