『 道に向く逢阪寺の 墓石の 夕つく色を、 見てとほるなり 』***通勤とか通学とか、あるいは主婦なら夕餉の支度とか、誰でも、いつも通る路があるものだ。つまり日常生活の路である。そこには馴染みの食堂とか八百屋とか魚屋とか雑貨屋とかが昔
『 しづかなる山に向かいて 思へども、 おもひ見がたきものこそは あれ 』***「おもひ見がたきものこそは あれ」とは、どういう意味だろう。昔々、私が高校生のときには国語の科目には、「古文」「漢文」「現代文」の三種類があって、それぞれ教
『 燈ともさぬ村を行きたり。 山かげの道のあかりは、月あるらしも 』***いつの頃からだろうか、人は「夜の闇」を失った。煌々と輝く電燈のあかりは、人から「夜の闇」を奪い去った。これは何を意味するのだろうか。とても重大なことを意味しているような気
『牽(ひ)かれきて 子らと遊べる馬の子は、 おのれ みじかき尾を ふりにけり 』***釋超空うたをみていると、馬がよくでてくる。この掲題のうたは下記のうたが先ず連想してくる。『 笹の葉を喰(は)みつ々 口に泡はけり。 愛(かな)しき
『夕かげの明かりにうかぶ土の色。 ほのかに 靄(もや)は這ひにけるかも』***私は小さい頃(小学生の5,6年生頃かな)、理由もなく午後という時間帯が嫌いだった。特に初夏とか晩秋とかの午後は嫌いだった。あたりは、ひっそりとしていて、なんだか生気がなく、
『 なき人の 今日は、七日になりぬらむ。 遭ふ人も あふ人も みな 旅人 』***私は一切の仏事に無関心な人間である。いや遠慮なく白状すれば、一切の仏事に軽蔑さえしている人間である。さらに言えば、仏事のみならず、一切の他の宗教的
『葛(くず)の花 踏みしだかれて、色あたらし。 この山道を行きし人あり。』***このうたは釋超空の代表歌だそうだ。このうたの直接の意味は私みたいな門外漢でも分かる。文学のみならず如何なる分野でも先人はいるものだ。***芭蕉のその一
『山中(なか)は 月のおも昏(くら)くなりにけり。 四方(よも)のいきもの 絶えにけらしも 』***このうたも民俗学研究の旅の途中の野宿でのうただろうか。身を草むらに横たえていた作者は深夜ふと目をさます。あたりは森(しん)とした静寂につつまれて
『にぎわしく 人住みにけり。 はるかなる木(こ)むらの中ゆ 人わらふ声 』***人間が好きか嫌いかと問われたら、私は人間嫌いの部類に入る。人と付き合うというのが生来苦手で、今でもそうだ。人間と一緒にいるより、私は犬や猫と一緒に居るほうが気楽
『 をとめ居て、ことばあらそふ声すなり。 穴井(あない)の底の くらき水影(みずかげ) 』***いままでみてきた釋超空のうたには、「をとめ」が登場するうたが二つあった。それらは下記のうただ。『をとめ一人 まびろき土間に立つならし。くらきその
『もの言ひて さびしさ残れり。大野らに、行きあひし人 遥(はる)けくなりたり』***一期一会という言葉がある。常に会っている家族でさえ、いつかは『遥(はる)けくな』る人たちだ。ましてや、旅の途中でたまたま逢って、なにがしかの言葉を交わして別れる人
『 いふことのすこし残ると 立ち戻り、 寂しく笑みて、いにし人はも 』***作者は何十年かぶりに友人に会った。この懐かしい友とのひと時が過ぎ、別れぎわに友人が何か大事なことを伝えたかったらしい。実は、作者とこの友人は今生では、もう二度と会
『 誰一人 客はわらはぬはなしかの工(たくみ) さびしさ。 われも笑はず 』***このうたの「さびしさ」は、いままでみてきた釋超空のうたの「さびしさ」とは少しヴェクトルの方向が違う。一口に喜怒哀楽というが、「笑う」はこの喜怒哀楽の中にあるのか。笑
『 笹の葉を喰(は)みつ々 口に泡はけり。 愛(かな)しき馬や。 馬になれる子や 』***たしか、「めんこい子馬」とかいう歌があった気がする。ちょっとネットで調べたら山本嘉次郎監督の『馬』という映画らしい。高峰秀子が子役として出ていたと記憶し
『 谷々に、家居ちりぼひ ひそけさよ。 山の木の間に息づく。 われは 』***以前に書いた早川考太郎によると、釋超空の民間伝承探訪の旅は無茶な冒険に近いものだったそうだ。ときには、山道に行き暮れて野宿するようなことは度々あったらしい。上記し
『 邇摩(にま)の海 磯に向かひて、 ひろき道。 をとめ一人を おひこしにけり 』***磯への道を歩いていたら、前に一人の「をとめ」が歩いていた。広い道だが、作者の前にも後ろにも、この「をとめ」以外誰もいない。この土地の「をとめ」
『山深く われは来にけり。 山深く木々のとよみは、音やみにけり 』***このうたの「とよみ」とは響動、つまり「どよめき」のことだそうだ。人里離れた山々は、なにかの霊が棲む霊的な存在であり、その山々の中の樹々の暗がりは、夏の真昼であっても、そこ
『むぎうらし ひとつ鳴き居し声たえて、ふたたびは鳴かず。山の寂けさ』***私が持っている本では、このうたに下記の(作者による?)説明が補足されている。 「麦うらしは、早蝉。鳴いて、麦にみを入れる、と言ふ考えからの名」作者はその蝉の声をどこかの山里
『 きその宵 多武(たふ)の峰より おり来(き)つる 道を思へり。 心しづけさ 』***「道を思へり」とは、どのような思いだろう。釋超空という人のうたの多くは(勿論私はこの人の歌を全て知っているわけではないが)、なにか共通した「思ひ」があるようだ
『 風の音しづかになりぬ。 夜のニ時に 起き出でゝ思ふ。 われは死なずよ 』***永井荷風が亡くなったのは1959年4月30日だから私が高校生のときだった。その日の朝だったか、通学の駅舎の前で友人から荷風の死を知らされたことを今でもよく憶えている
『 山々をわたりて、人は老いにけり。 山のさびしさを われに聞かせつ 』***作者が山道を歩いていると、向こうから来る老人と出会った。今日、この山道で会ったのは、この老人だけであった。この老人とすれ違うとき、なにがしかの声をかけあった。そ
『 磯村へますぐにさがる 山みちに、 心ひもじく 波の色見つ 』***「ひもじく」とはなんだろう。コンデンサやコイルなら私は分かるが、昔、学生のとき国語が苦手であった私は今でも日本国語の知識はすこぶる貧しい。だから三省堂の国語辞典で調べてみた。「
『旅を来て 心 つゝまし。 秋の雛 買へと乞ふ子の 顔を見にけり 』***旅に出た作者の心は今は静謐なようだ。たまたま、「秋の雛 買へと乞ふ」子たちに遭遇した。貧しい身なりの子供たちである。親が作ったのか自身で作ったのか、稚拙な「秋の
『 山びとの 言ひ行くことのかそけさよ。 きその夜、 鹿の 峰をわたりし 』***作者は山深い木曽の宿にいるらしい。もう、だいぶ夜もふけたようだ。その宿の、こじんまりとした質素な部屋で、作者は未だ何かの本を読んでいる。すると、宿の奥のほう
『闇夜の 雲のうごきの静かなる 水のおもて堪えて見にけり』***山深い土地で一泊の宿をとった作者はふと目を覚ます。その宿の横には小さな川が流れているらしい。その川の流れの音が低く聞こえてくる。作者は、その川側にある窓を少し開けて外を見る。外は
『いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹(かに)のはさみを もぎはなちたり』***私はこのうたを読むと、いつも、ある映画に登場する少年の心を連想する。その映画は『泥の河』(1982年、小栗康平監督)だこの映画で喜一(きっちゃん)という少年が登場する。彼の
『山深く こもりて響く風の音。夜の久しさを堪えなむと思ふ』***民俗学者でもあった釋超空(折口信夫)は日本各地を訪ね歩いたそうだ。このうたは、どこかの人知れぬ山里の宿でのうたかも知れない。ふと眼を覚めると、どこからか風の音が低く聞こえてくる。そ
『供養塔』は以下の五つのうたの連作であり、私の最も愛するうただ。思えば「愛」という言葉ほど日本離れしたものはないのだが、ここでは愛を使いたい。この連作は以下のうただ。***『 人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ
『 犬の子はおへど去らねば、 犬の子の心を知りて さびしかりけり 』***村の道を歩いていたら、どこからか子犬がついてきた。首輪のないところをみると飼い犬ではないらしい。捨て犬の子犬かも知れない。ちょっと追い払う真似してみると少し後ずさり