『山深く こもりて響き風の音。夜の久しさを堪えなんと思ふ。』***私は毎朝、散歩をしている。以前より私は、めっきり元気がなくなって歩く歩数もだいぶ減ってしまった。ここ10年程其の散歩を続けているのだが、ときどき出会う犬が三匹居た。その一匹は飼い
釋超空の歌三つ。『山の夜に 音さやさやし。 聴こえゐて、夜ふくる山を おもへり。』『雪ふみて さ夜のふかきに還るなり。 われのみ立つる音の かそけさ 』***作者は民俗学探求の旅の途中、宿をとった。人里離れた奥山の底の宿である。夜
『山びとの 歳木(としぎ)樵(き)りつむ音ならし。 夕日となれる庭に かそけき 』『歳木(としぎ)』とはなんだろう。ネットで調べてみた。1 新年の燃料として、暮れのうちに用意したたきぎ。2 戸口や門松のそばなどに置き、年神に供える木。節木(
『鳥のなく山を おり来てたそがれぬ。 つひに一つの その鳥のこゑ 』***作者は今朝も宿主の人に別れの挨拶をして山に入った。ひとすじの道が、どこまでも続いている山だ。いくつの峠を越してきただろうか。もう黄昏(たそがれ)てきて山の向こうは、も
『 直面(ひたおもて)に たゝひ満ちたる暗き水。 思ひ堪へなん。 ひとりなる心に 』***私の本では、このうたの後のほうに以下のうたが掲載されている。『 暗闇の 雲のうごきの静かなる 水のおもてを堪へて見にけり 』
『 目のまへに、ゆるゝ一木のまだ見えて、 このゆふぐれの 山のしづけさ 』***結局、この世界なんだな私が惹かれるは。結局、人の心は、その人しか分からない。他の人の心の中を土足で入るようなことは、もう止めよう。***想像しよう。作者は広い野
『とまりゆく音のまどほさ。目に見えぬ時計のおもてに、ひた向ひに居り』***私は古語の知識は皆無だ。たしか高校生の頃『古語辞典』はもっていたと思うが、はるか遠い昔に捨ててしまった。掲題の歌の『まどほさ』の意味が私は分からなかった。古語かも知れな
『 病む母の心 おろかになりぬらし。 わが名を呼べり。 幼名によび 』***これは釋超空のうたの独断的感想だから、釋超空の個人的な境遇などは私はあまり関心はないのだが、掲題のうたには個人的に少し思うところがある。掲題のうたから予想すると釋超空
『 おもしろく 世にあらなむなど思へども 人厭ふさがは つひにさびしも 』***『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。』ご存知、『草枕』の冒頭の一節である。各人の事情の差・程度の差はあ
『 過ぐる日は はるけきかもと 言ひしかど、 人は すなわち はるけくなりつ 』***私の家の近くに運動公園がある。その公園の入り口近くに、小さなツツジの群れが、その公園を囲むように植えられている。もう何十年前になるだろうか、その頃は私が飼
『夜ふかく 薬をつかひ起きゐたる憂きならはしも、今は絶えたり 』***精神科医・飯田眞の小論によると、釋超空というより折口信夫は、彼の民俗学研究に没頭するとき、『コカインを濫用しながら、不眠不休にて仕事に勵』んでいたらしい。釋超空における歌と折
『かたくなに 人な憎みそ。 をとめ子は あしきも よきも、 愛(かな)しきものを***以前、紹介した、飯田眞という精神科医による『折口信夫 診断・日本人』と題された小論に以下の記述がある。釋超空は女性恐怖症だったと言うのだ。『第二は女性恐怖に
『 しづかなる秋のひと日や。 うつらうつら さびしき音を 聞きとめて居り 』***スモーク・ツリー(smoke tree)という樹をご存知だろうか。私の部屋の窓から、その樹が真正面に見える。落葉樹だから、今、葉を落としつつある。この樹は初夏頃、綿を
『 水底(みなそこ)に、うつそみの 面わ 沈透(しづ)き見ゆ。 来む世も、 我の 寂しくあらむ 』***ちょっと気分転換するため、インターネットで『釋超空』を検索してみた。そしたら、飯田眞という精神科医による『折口信夫 診断・日本人』と題
『 いにしへや、 かゝる山路に 行きかねて、 寝にけむ人は、 ころされにけり 雨霧のふか山なかに 息づきて、 寝(ぬ)るすべなさを 言ひにけらしも 山がはの澱の 水(み)の面(も)の さ青(を)なるに 死にの いまはの
『 奇妙なる人形ひとつ 時々に踊る出る如し。我が心より 』***『奇妙なる人形ひとつ』とは何だろう。私は短歌のみならず文系一般の門外漢だから、例えば掲題のうたも、私の連想にまかせて迷想すればコト足りるのだが( 事実今まで、そうしてきたし、それ以上
『 雇はれ来て、やがて死にゆく小むすめの命を見し。これの二階に 』***このうたは大正七年に作られている。当時の地方の生活の実情はどのようなものであっただろうか。今では想像も出来ない悲惨な状況が少なくなかっただろう。生計のための『娘売り』とい
『 両国の橋ゆくむれに、われに似て、 後姿(うしろ)さびしき人のまじれり 』***両国は別に両国でなくても構わない。むしろ、この世の別名だと思おう。橋は此岸と彼岸との橋だと思おう。さて私は今まで私自身の後姿を見たことがあっただろうか。貴
『 かそかなる幻 ーー昼をすぎにけり。 髪にふれつゝ 低きもの音 』***「私」(女性)は幻影を見た。幻影? たしかに、それは幻影としか言いようがない。秋の昼の陽の光は解析幾何学のように透明であったが、しかし一瞬の翳りを「私」は、その光の
『 鳥 けもの ねむれる時にわが歩む ひそかあゆみの 山に消え行く 』***深い山の中の鬱蒼とした樹々。その翳(かげ)った罔(くら)細道を、一人、影のように秘かに歩む釋超空の姿を想像すると、このときの釋超空は人間というより、『けもの』と言う
『 うらうらと さびしき浜を来たりけり。 日はやゝ昏(く)れて、ひゞく 浪音 』***釋超空と石原裕次郎。ほとんど全ての人が、この二人は全く無縁と思うだろう。確かに無縁には違いない。しかし一つだけ共通点がある。それは石原裕次郎の映画『
『 静かなる山の昼かな。 日の色の 澄み明らけき道の上の 虫 』***山奥に一本の細い道が続いている。随分、長い時間歩いてきたが人一人会わなかった。それにしても、なんという静けさだろう。見わたすと、景色はひらかれていて向こうの山ひだが明るく
『 日の照りの おとろへそむる野の土の あつき乾きを 草鞋(わらじ)にふむも 』***作者の民俗学研究の旅姿は、草鞋(わらじ)・脚絆・菅笠(すげがさ)の出で立ちだったのだろうか。たぶん、そうだろう。そういう姿を想像してみよう。そういう出で立ち
『 をとめ居て 起(た)ち居 寝し居間を見たりけり。 あはれに結(ゆ)へる 残り荷の紐 』***山本周五郎に『日本婦道記』という短篇集がある。私がこれを読んだのは、もう半世紀ほど前だが、この短篇の中の一篇の『その木戸を通って』など今でも印象
『 あるき来て 道にたゝずみ 思ふことあり。 おほきもの忘れを しける我かも 』***釋超空ほどの人も、『おほきもの忘れ』をしたと思うことがあるだろうか。さて私はどうだろうか。もとより私は『おほきもの』など始めからもっていな
『 曇る日の まひる と思ふ空の色 もの憂き時に、 山を見にけり 』***まさに当地の今日(8/31)の天気模様。梅雨どきにもどったような、どんよりとした曇り空。ラジオだろうか、遠くから若者たちの流行(はやり)歌が鈍く聞こえてくる。
『 馬おひて 那須野の闇にあひし子よ。 かの子は、家に還らずあらむ 』***このうたも釋超空のうたに繰り返し表れる心象風景の一つだろう。国木田独歩の『忘れえぬ人々』の主題は、まさに釋超空のうたの主題の同質と言えると私は思う。 たとえば
『 鳥のこゑ 鐘のひヾきの 身にしみて、かそけき山に めざめけるかも 』***私は作者に、少なくとも此のときの作者に羨望の念を禁じえない。鳥のこゑ。鐘のひヾき。そして、かそけき山。なんという幸福な、めざめだろう。鬱々たる夜の闇に声こそ出
『 雨霽(は)れて、 山の木草の うち白(しら)む このも かのもに 見覚えのある 』***はるか遠い昔だったか、いや、たった先刻だったか私は薄暗い靄(もや)の中で舟に乗っていたような気がする。岸が音もなく、ぼんやりと遠ざか