元和5年(1619年)、下総国関宿藩から松平重勝が2万6千石で入城し再び横須賀藩が復活するも子の重忠が4万石加増で出羽国上山藩に移封。元和8年(1622年)、井上正就が5万2千5百石で入り、2代藩主の正利は5千石を弟の正義に分与している。正
天正2年(1574)、徳川氏の支配下にあった東遠江の要所である高天神城が武田勝頼によって落城し父の信玄でさえ落とせなかったこの城を陥落せしめた事は勝頼の名声を一時的に高める事となった。これに対して徳川家康は馬伏塚城主であった家臣の大須賀康高
十九首塚というおどろおどろしい名前はその名の通り19人の武将の首が埋葬されている事に由来する。その中の中心人物は平将門である。承平5年(935年)、常陸国を初めとして関東一円を支配下に治めた平将門は律令国家に対する新たな国家を目指し「親皇」
現在ある掛川城の二ノ丸御殿は地震による倒壊を受けて文久元年(1861年)に再建されたもので藩政の中心であった。明治2年(1869年)、廃藩置県によって掛川城が廃城となると学校や市庁舎として利用されていたが昭和47年(1972年)から3年間を
一豊の去った後の城主は落ちつかず、松平氏、安藤氏、松平氏(二代)、朝倉氏、青山氏、松平氏(二代)、本多氏、松平氏、北条氏、井伊氏(三代)、松平氏、小笠原氏(二代)と実に目まぐるしく変わっている。このうち朝倉宣正は織田信長に滅ぼされた越前朝倉
子角山に代わって新たに龍頭山に築城されたのが現在の掛川城である。古くは懸川とも書かれていた。当初、掛川古城を築城した朝比奈泰煕の後も泰能、泰朝と朝比奈氏が城代を務めていた。しかし永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が戦死して以降の