弘治2年(1556年)に木曽義康が築城した木曽福島城を詰の城とする居館があった場所に江戸時代、尾張藩の直轄地であった木曽谷の支配を任された代官、山村氏が築いた屋敷である。山村氏は福島関所の関守でもあった。現存する屋敷は御下屋敷の一部であり、
大通寺(だいつうじ)は関ヶ原の戦い後に木曽の代官となった山村良勝によって建立された。元は上之段城の居館があった場所である。山村氏は木曽谷の国人・木曽氏の家臣であったが、木曽氏は天正18年(1580年)に豊臣秀吉によって下総国海上郡阿知戸に移
福島関所は信濃国筑摩郡を通る中山道に設置されていた江戸幕府の関所である。福島宿の北入口に置かれていた。設置年は諸説あり、慶長7年(1602年)またはその前後、それ以前とも言われているが慶長20年(1615年)の大坂の陣後との説もある。当初は
木曽谷の木曽氏は当初、須原(大桑村)に居を構えていたが応永年間(1394年〜1427年)に木曽親豊が木曽谷の中心で飛騨国や伊那へ通じる交通の要所であった福島に拠点を移して築城したのが小丸山城である。八沢城の別名で呼ばれる事もある。天文24年
永正元年(1504年)、飛騨国司・姉小路済継の家臣・三木重頼(重綱)の軍勢が白洲峠を越えて侵攻してきた際、木曽義元は王滝城でこれを迎え撃ったが敗北し重傷を負って居城であった木曽福島城へ退却中に川合の地で死去した。享年30。義元の嫡男・義在(
JR東海の313系8000番台に運良く乗車出来ました。塗装のオレンジ色ラインが目立つこの車両は平成11年(1999年)に313系が登場した際に一部を内部改装して固定クロスシートのセミコンパートメントと呼ぶテーブル席を設置し名古屋−中津川間を結ぶ快速列
結局年内に年内の日記を終わる事は出来なかった。色々あったのです。悪い事ではないから良いけども・・。てな訳で8月24日に訪れた木曽谷の日記を更新。お盆を過ぎてもまだ終わらぬ夏の盛り。今年は秋がほとんどなかったように感じられる。この時当初は電車
創建年代不詳。祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。国家安泰、学業成就、出世開運の神。中山道・垂井宿と東海道・熱田宿を結ぶ美濃路の尾張国最初の宿場町であった起宿の地に尾張守護・斯波義重が社殿を造営。江戸時代に入ると尾張藩4代藩主・徳川吉
石刀(いわと)神社は崇神天皇の代に創建されたと伝わる式内社であるが、名が残る「式内社石刀神社」と称されているものはこの一宮市今伊勢町の「石刀神社」、一宮市浅井町の「石刀神社」、羽島市桑原町の「八剣神社」の3ヶ所いずれかに該当するという。一説
真清田神社本殿の横には服織(はとり)神社が鎮座している。祭神は萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)。別名・袴幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で天火明命の母神である。一宮市が織物産業で栄えた事から昭和40年(1965
古代史研究の場を愛知県尾張地域に移してみる。尾張国一宮である真清田神社は創建年代不詳であるが、その起源は古代に尾張国造かつ尾張国三宮である熱田神宮の宮司でもあった尾張氏に遡る。社格は現在の一宮市の由来にもなっている。祭神は天火明命(あめのほ
茜部(あかなべ)神社は式内社、郷社であり、かつてこの地は奈良時代の710年頃に東大寺の荘園・厚見荘(後の茜部荘)であった。天長7年(830年)にこの地の守護神として勅令により宇佐八幡宮を勧請して創建されたと伝わる。一説に茜部の名はアカネ(ア
健勲(たけいさお)神社は明治2年(1869年)に「日本が外国から侵略されなかったのは天下統一を目指して日本を1つにまとめた織田信長の功績である」とした明治天皇によって天下統一や朝儀復興などを進めた信長を称えるために健織田社(たけしおりやたの
色々試してもネット環境が良くならないのである・・。なので調子の良い時にポツポツ投稿。黒岩神社は金(こがね)神社の境外社である。また金神社の御旅所(おたびしょ)となっている。御旅所とは神社の祭礼において神が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、
金(こがね)神社の主祭神は金大神と伝わるがこれは淳熨斗媛命の別名であるともいう。五十瓊敷入彦命、市隼雄命、日葉酢姫命の4柱が祀られている。五十瓊敷入彦命は謀反の濡れ衣により美濃(当時は三野と表記)で討たれたとの説があるが、妃であった淳熨斗媛
金華山に連なる上加納山の麓に鎮座している。祭神は市隼雄命(いちはやおのみこと)。五十瓊敷入彦命と淳熨斗媛命(景行天皇の第六皇女)との間の子である。なお諏訪大社の祭神である建御名方神の子、出早雄命の4世孫に会知速男命がおり、別名・市速男命(い
引き続き地元の民間伝承を探っていこうと思い美濃三ノ宮である伊奈波神社へ伊奈波神社の主祭神は五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)である。「記紀」にその名を残す古代豪族である。「古事記」では「印色入日子命」とも表記されている。第11代垂仁
祭神は家津御子神 (けつみこのかみ)熊野夫須美神(くまのふすびのかみ)速玉之男神 (はやたまのおのかみ)伊弉那美尊 (いざなみのみこと)熊野権現と称される神々が祀られているようだが家津御子神はスサノオ、熊野夫須美神はイザナミ、速玉之男神はイ
結(むすび)神社の祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)、猿田彦命(さるたひこのかみ)であるが猿田彦命は江戸時代に合祀されたものである。古来より生産や縁結びの神社として
犀川(さいがわ)事件は岐阜県の西濃地域で発生した治水を巡る反対デモが巨大化したものである。海抜が低い上に洪水多発地域であり、洪水の水を排水出来ずに水田の稲が大損害を被ってきた岐阜県本巣郡南部地域の治水問題を解決するため、大正11年(1922