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2019年02月03日19:43

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横須賀城1

天正2年(1574)、徳川氏の支配下にあった東遠江の要所である高天神城が武田勝頼によって落城し父の信玄でさえ落とせなかったこの城を陥落せしめた事は勝頼の名声を一時的に高める事となった。

これに対して徳川家康は馬伏塚城主であった家臣の大須賀康高に命じて高天神城を包囲する付城群を築城させた。その中の中核であったのが横須賀城である。しかし当時の横須賀城は目の前に遠州灘が広がる海岸沿いに作られたものであり、石垣となる石を掘り出せる山がなかった。しかしそれでも武田氏に対抗するには堅固な構えを持つ城が必要であった。そのため天竜川の玉石を用いた全国的にも類を見ない玉石垣の城が築かれたのである。

天正8年(1580年)に横須賀城が完成すると包囲網も整い、翌年には徳川軍の総攻撃により高天神城の奪還が果たされた。程なくして康高は死去したため家督は養子の忠政が(元は榊原康政の長男)継いだ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の天下統一によって家康は関東へ移封となり忠政も上総国久留里へ移封となった。横須賀城には豊臣秀次の家臣、渡瀬繁詮(わたせしげあきら)が入城する。繁詮は秀次の権勢を逆手に過酷な重税を課し、納められなかった者は死罪となった。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件が発生すると繁詮も連座して改易、死罪となり渡瀬家の重臣であった有馬豊氏が城主となる。しかし彼も太閤検地など過酷な重税を行いこの豊臣系大名の時代は「悪政の時代」と呼ばれている。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで豊氏は東軍に属して功を挙げ戦後に丹波国福知山6万石を与えられて移封となり変わって大須賀忠次が5万石で久留里から戻ってきて横須賀藩を立派した。彼は税制を旧来の物に戻し悪政を立て直す事に尽力している。2代藩主であった忠政の子、忠次は元々の血筋である榊原家、上野国館林藩の榊原康勝が嗣子なく死去したため榊原家を継ぐ事となり横須賀は天領となった。
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